紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

芭蕉句碑(すみれ塚)

芭蕉句碑(すみれ塚)

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案内板
「 (3) 芭蕉句碑(俗称すみれ塚)

山路来て 何や羅遊(らゆ)かし
寿み連(すみれ)草 はせを

松尾芭蕉の句。貞享2年(1685年)の3月27日ごろの吟。前書きに『京都より大津に出る道山路をこえて』と『甲子(きのえね)吟行 別名 野ざらし紀行』にある句で、碑は大津出身の菅井家先祖が ここから見た宿場のたたずまいが近似しているところから常に、その情景を孫、子に語り伝えてきました。三代 菅井嘉兵衛高伯(たかあき)のとき、供給にふさわしいこの秀句を選び、安永2年(1772年)芭蕉の八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、中山道に面して建てられましたが、30年前に保護するため、道筋からはずし、昭和53年(1978年)3月、昔の面影を残すため、この場所に移しました。」

尾州白木改番所跡

尾州白木改番所

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案内板
尾州白木改番所跡(びしゅうしらきあらためばんしょあと)

中山道には木曽から伐採した細目を監視する尾州(尾張藩)の番所が設けられていました。
この中津川市上金の地にあった『尾州白木改番所跡』は、天明二年(一七八二)に建てられ、明治四年(一八七一)に廃止されました。
白木とはひのき(桧)など木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用しました。
尾張藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、白木や【ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ】をはじめとする木曽五木の出荷統制を行っていました。 」

中山道上金かいわい

中山道 上金かいわい」
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案内板
「 歴史の道 中山道
中山道上金かいわい

 この付近は江戸時代、上金村と呼ばれ中津川村の支村であった。
 『濃州徇行記』「寛政七年」(1795)には、石高六七石余りの小村で、家数十八戸、人口八五人、民家は街道左右に散在し、多くの山畠があったと記されている。
 国道十九号により約二十m中山道が消滅しているが、道幅は三~四間であったといわれている。
 地下道を通って東に進むと「子野の地蔵堂石仏群」があり、高さ二m余りの徳本行者念仏碑の他、庚申・地蔵・観音等が数多く祀られている。

平成十四年十月吉日
中津川市教育委員会

子野の石仏石塔群 道祖神

道祖神(反対側の階段下)
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案内板
道祖神(どうそしん)

文化14年8月(1817) 村中 道祖神は道を守る神様です。
ここにある道祖神にも、それぞれの行き先が刻まれています。『右ハ山みち 左 中山道』と刻まれていますが、風化が進み、読むのが難しくなっています。子野村の入り口に立てられ、悪者や疫病などが村に入らないように村の人々を守る番人です。」

弘法大師

十一面観音(向かって左)
弘法大師(向かって右)
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案内板
弘法大師(こうぼうたいし)

弘法堂は大正12年(1923年)関東大震災のあと、被害者の冥福を祈り弘法様をお祀りして、子野村の人たちの幸せと災害がないことを祈願しました。
弘法大師空海のことで、大師といえば弘法大師を指し空海を知らなくても『弘法さん』とか『お大師さん』を知る人は今でも多くいます。 」

子野の石仏石塔群 地蔵尊

地蔵尊
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案内板
地蔵尊(じぞうそん)

親しみを込めて『お地蔵さん』、『お地蔵様』と呼ばれています。
ここにあるお地蔵様は、江戸時代に中山道を整備した時、地蔵堂川の橋のたもとにあったものをここに移したと言われています。
『子供の守り神』として信じられており、子供が喜ぶお菓子が供えられています。
日本人にとって、もっとも親しみ深い菩薩として祭られています。 」

馬頭観音

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馬頭観音 wikipediaより

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馬頭観音 wikipediaより

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馬頭観音(ばとうかんのん、梵: हयग्रीव、hayagrīva、ハヤグリーヴァ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、いわゆる「六観音」の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、柔和相と憤怒相の二つの相をもつが、日本では柔和相の姿はあまり知られておらず作例も少ない。そのため、通例として憤怒相の姿に対しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』に説かれる「八大明王」の一尊にも数える。

他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、一般に馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である。このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて仏の五部で蓮華部の教令輪身(きょうりょうりんじん)であり、すべての観音の憤怒身ともされる。それゆえ柔和相の観音の菩薩部ではなく、憤怒相の守護尊として明王(みょうおう)部に分類されることもある。

また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらには、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされていて、『六字経』を典拠とし、呪詛を鎮めて六道輪廻の衆生を救済するとも言われる「六観音」においては、畜生道を化益する観音とされる。

馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間の信仰に支えられて数多くのものが残されている。また、それらは「山の神」や「駒形神社」、「金精様」とも結びついて、日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出した。

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子野の地蔵堂石仏群

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案内板
「 子野の地蔵堂石仏群

昔このあたりに地蔵堂があったといわれますが所在は明らかではありません。
中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで枝が延びて趣があります。
ここは無縁の石仏を集めた所とも伝えられ、元禄七年(一六九四)の庚申塚や地蔵、観音像等が数多く祀られています。
また、文政五年(一八二二)の『南無阿弥陀仏』と独特の文字で書かれた高さ二・〇メートルの徳本行者な名号石があり、生き仏と言われた彼が文化年間(十九世紀初め頃)にこの地に逗留して、『称名念仏』を布教したことを偲ばせます。

中津川市教育委員会

地蔵尊

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地蔵菩薩とは wikipediaより

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大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。

日本における民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供えられている。

一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。

地蔵菩薩は忉利天に在って釈迦仏の付属を受け、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩であるとされる (六道能化〈ろくどうのうげ〉)。

像容

一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い(この場合、伝統的に彫像であることが多く画像はまれである)。

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子野の石仏石塔群 如意輪観音(にょいりんかんのん)

如意輪観音(向かって左)
聖観音 (真ん中)
六字名号塔 (向かって右)
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案内板
如意輪観音(にょいりんかんのん)

農民たちは、肘をつき手のひらを頬にあて、あたかも痛んだ歯を押さえている姿なので、虫歯が痛むときにはお参りすれば治してくれる仏様と信じ参拝していた人もいた。
本来の如意輪観音は、宝の数珠を持ち財宝を人々に与え、貧しい人達の幸せを満たしてくれるといわれています。 」

子野の石仏石塔群 徳本名号塔

徳本名号塔
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案内板
「 徳本名号塔(とくほんみょうごうとう)

徳本上人が子野村の地に念仏行者として現れ、ここに住む農民に徳本講を教えた。
農民たちは大変喜び徳本名号塔を貧しい生活の中で、お金を出し合い立てました。
徳本上人は厳しい修行を行いながら『南無阿弥陀仏』を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救ったといわれています。徳本上人の書かれた『南無阿弥陀仏』の文字は丸みをおび、終筆がはねあがり、縁起が良いといわれ、徳本文字と呼ばれています。 」

子野の石仏石塔群の庚申塔、慈母観音

庚申塔
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案内板
庚申塔

庚申は、暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰です。道のほとりに塚を築いて、供物をして、往来の旅人にいたるまで供え物をして与えて、庚申様のお祭りをしたそうです。 」


慈母観音
案内板
「 慈母観音(じぼかんのん)

慈母観音は子安観音(こやすかんのん)とも言われ、母が子に対し深く大きな慈愛の心を表した菩薩像です。
昔は、医者もなく子供を生み育てることは大変な苦労でした。
子供が無事生まれ育ってくれることを祈り、多くの村人がこの観音様にお祈りをしたことでしょう。
特に女性の方から強い支持があった観音様です。 」

子野の石仏石塔群

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案内板
「 子野 石仏群

地元の人たちは、ここを『とっこん様』と呼んでいる。
『徳本上人の念仏碑』があり、徳本さまがなまって『とっこん様』になった。
ここの石仏は中山道沿いにあった石仏を集めたと言われている。
子供が
境内には、樹齢350年のしだれ桜と寄り添うように柊の木が植わっている。
(五街道巡業記に記載あり)是非見てください。

(英語説明割愛)


中津川市がんばる地域サポート事業の補助を受けています。

通り抜けできます 」

中津川市古文献アーカイブより

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地蔵堂の石仏群

子野 の地蔵堂川の東たもとに石造物群がある。文政五年(一八二二)の徳本上人の念仏碑のほか、元禄七年(一六九四)・寛延三年(一七五〇)・天保一二年(一八四一)の庚申・地蔵・観音像などが数多く祀られている。境内には枝垂桜の古木があり趣を添えている。道は左へ曲がりながら緩やかに下り地蔵堂川を渡る。橋を渡るとすぐ左に第一用水が地蔵堂川へ流れ込んでいるのが見える。道は右へ大きく曲がり短い急坂となる。

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御嶽神社 覚明霊神社

御嶽神社 覚明霊神社
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「開山覚明霊神百五十年祭碑」
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komainu.orgより

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覚明神社(中津川市子野)

覚明とは御嶽山への通路を開き、頂上にて大往生を遂げたと伝えられている行者さんで、天明5年(1785)5月5日に木曽御嶽山を開くため中山道を通り、ここ槙坂の茶屋で泊まったおり、主人佐次兵衛一家が皆でもてなし、その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈ったと云われています。その開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭ったのがこの神社の始まりです。

(この文章に添えられていた写真は、「神社外観」、「神社入り口」、「開山覚明霊神百五十年祭碑」、「御岳神社文字碑」、「様々な霊神碑」、「御岳神社」)

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shugen-jitsukaga.weblike.jpより

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槙坂の覚明神社

岐阜県中津川市中津川子野  2010年4月24日
中山道の子野の一里塚跡から南に向かい、150mほどの槙坂を登り切ると右側に立派な石組みで築かれた神社が見えてきます。石段を上がって境内に入ると霊神碑が立ち並び、その中にひときわ高い実利霊神の碑が建っています。平成22年(2010)4月、初めて訪れた時に神社名を探したのですが、それらしき名称を見つけることができませんでした。鳥居をくぐって入った境内に「御嶽神社」と刻まれた石碑を見つけ、さらに地図にも同じ表示がありましたので「御嶽神社」として紹介しました。その後インターネットなどの情報から「槙坂の覚明神社」と呼ばれていることが分かりました。今後は「覚明神社」と改めて紹介させていただきます。向かって左に隣接するのは「御嶽教槙坂覚明教会」です。

尾張出身の覚明行者は、木曽御嶽山の登拝を大衆に開放する意志を持って御嶽山に向かいました。登拝はそれまで道者や七十五日ないし百日間の御嶽潔斎行(重精進)を経た者など、限られた者にしか許されませんでした。覚明行者は軽精進による大衆の登拝を実現しようと麓の村々を廻り説得に努めましたが許されませんでした。天明五年(1785)意を決し賛同者や信者を引き連れ、登拝を繰り返し強行して牢に繋がれました。翌年からは登拝を強行するだけではなく御嶽山黒沢口登山道の改修に着手しました。そしてその年の6月20日御嶽山の二の池を見下ろす高台で、志なかばにして病に倒れ69年の生涯を終えました。二の池の畔から南へ300mほどにある入定の地となった高台には、二の池を見下ろすように覚明行者を祀る霊神場があります。また、行者の遺体は黒沢口登山道九合目半に建つ覚明堂の正面の霊神場に埋葬され祀られています。覚明行者の没後、次第にその行跡が認められ寛政四年(1792)には軽精進が正式に許可されました。その後江戸の普寛行者によって新しい王滝口登山道が開かれました。

覚明行者が木曽御嶽山に向かう途中、恵那山で十七日間の断食修行を行いました。その修行を終え、当時「覚明神社」の建つ場所にあった槙坂茶屋で休憩をしてもてなしを受けました。翌朝茶屋の主人に依頼された祈祷が評判を呼び、大勢の人に祈祷を頼まれるようになりこの地で三年間過ごしました。 覚明行者の没後、茶屋の主人古根佐次兵衛が祀ったのが「覚明神社」の始まりと伝えられています。

(5/12 2014)

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ontakejinja.jpより

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行 者 列 伝

覚明行者

 覚明行者は享保3年(1718)3月3日に、尾張国春日井郡牛山村の農夫清左衛門の子として生まれ、母を千代といった。
家が貧しかったので、土器野村の新川橋辺の農家に引きとられて養われたという。

 木曽の大桑村上郷の田沢家の伝承によると
「覚明様はもと魚商人で名古屋の方から木曽へ行商に荷物をかついできて家(田沢家)へもよく泊ったり休んだりしていった。
木曽の地理はとてもくわしかった。
そのうちどうしたことか、さっばりこないと思っていたら、何年かたって今度は行者になってやってきた。」といっている。

 行者が御嶽登拝を目指して木曽へ来て、第1回の登山をおこなったのは天明5年であり、
連城亭随筆の筆者の村へ覚明行者として訪れたのは天明6~7年のことであるから、
行者の名が御嶽登山をおこなって後になってからその郷里にも知られるようになったものであることがうかがわれるものである。

 王滝村滝氏所蔵の『神社留記』によると
天明4年、5年の両年にわたって黒沢村の武居家へどこの国のものかはっきりしない坊主が来て
御嶽登山を許可してくれと頼みこんできたが、
登拝は古来より百日精進の重潔斎でなくてはならないとして許可しなかったところ、
天明5年にはついに許可を待たずに6月4日8人、14日には30人余り、28日には7、80人余りが
御嶽山大先達覚明という旗をおし立てて登ったとしているから、
天明4年に御嶽登山の念願のもとに黒沢村へ来たものであることが知られる。

なおこの記録によると「此坊主名古屋通り松にて3年以前(天明2年)御追放にて山賊の張梵切支丹の様相見へ申侯。」とあるから、
この以前から行者として相当の活動をしていたことが知られるし、
名古屋を追放された行者は中山道を下って木曽に来たものと考えられる。

 大桑村野尻には覚明行者が古瀬屋に宿泊し、古宮の滝という所で修行をしたことがあると伝え、
また行者は福島の願行寺(福島に居館した、木曽代官山村氏が比叡山や東叡山にならってその鬼門鏡護とした天台宗の寺院)
覚円法印に師事したと伝えているし、
さらに開田村の西野、未川には、覚明行者が布教の途次この地に赤松の生えているのを見て稲作の可能を説き、
開田を勧めたとしている伝承があり、村の作次郎という、福島・西野間の持子をしていた者が行者の強力をつとめたという伝承もあって、
御嶽登山をおこなう前、行者が山麓諸村落の間を布教して回ったものであることがうかがわれる。

 『連城亭随筆』には行者が川へ棒を浮かべてその上を伝って渡る術を持っていたことを述べており、
また王滝村の『神社留記』にも 「霞を自在に仕り、御体も己が自由自在に仕り、怪敷き事にて諸人の目を驚し申候」とあるから、
その法力がすぐれており、山麓の村々においても多くの信徒を得ていたものであることがうかがわれる。

 行者が初めて黒沢へ来たときの様子を伝えるものとして
「黒沢村の某が福島の半夏の馬市に出掛けての帰りみちに合戸峠で覚明行者に行合い黒沢へ案内して来た。
そしてねんやへ連れていって登山のことをたのんだが
百日の精進をしたものでなければ登らせるわけにはいかないといって許されなかった。
それで田中の庄屋のところへいったが田中でも、
ねんやと福島の代官様の許しがなければ到底登山することはできないといって諭したので、
あきらめて帰っていった」
という口碑が残されているが、鎌倉時代以来御嶽の支配者としての地位を与えられていた黒沢村の神官武居家では、
軽精進によるみだりな登拝は数百年来続けられてきた重潔斎による登拝行事の慣例を破るものであり、
御嶽の神威を犯すおそれがあるとして行者の請願を却下したものである。

しかして行者は御嶽軽精進登拝の念願を捨てることができず、
天明5年(1785)6月登山を強行するに至ったものである。
この間の事情は「覚明行者による黒沢口登山道の改修と軽精進登山の許可」のところで詳しく述べたとおりである。

 天明6年行者はさらに信徒を引きつれ登拝をおこなうとともに、
黒沢村薮原の仙長九郎等の協力を得て登山道の改修のことにもあたろうとしたが、
この事業遂行の中途で病のおかすところとなり、
ついに天明6年6月20日御嶽山の二の池の畔で入定しその生を終えるに至ったものである。
ミイラ化したその遺骸は信者たちによって9合目に葬られた。
現在の覚明堂の場所がそれである。
行者の没後その功績が認められ、寛政4年に至って武居家より軽精進登拝の正式許可があり、
これによって御嶽信仰木曽一円の信仰から全国的な信仰へと拡大されていく端緒が作られるようになった。
この偉大なる功績に対し、嘉永3年(1850)7月覚明行者に対して、上野東叡山日光御門主より菩薩の称号が授けられている。
黒沢の赤岩巣橋の霊神場の覚明行者の霊神碑はこのとき建立されたものである。

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与坂立場跡・与坂御番所跡

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案内板
「 立場跡・与坂御番所

 ここ与坂の立場には「越前屋」という茶屋があり、米の粉の餅に黒砂糖を煮詰めて塗った三文餅を売っていた。
 また、このあたりに白木(ひのき・さわら・ねずこ・こうやまき・あすなろ等)を取り締まる与坂御番所が置かれていた。御番所はその後中津川上金へ移された。 」


与坂立場跡 中津川市観光情報Webサイトより

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落合宿の西のはずれからさらに中山道を西に行くと、中津川宿との境に与坂という急な坂がある。昔、この坂の頂に越前屋という茶屋があり、三文餅を売っていた。これは、米の粉の餅に黒砂糖を煮詰めたものをぬった餅で、名物としてよく売れたそうである。そのため、越前屋の裏の井戸から黄金が湧き出るといううわさが広がったほどであった。

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恵峰Webより

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立場茶屋「越前屋」が約150年ぶりに復活 水琴窟のある喫茶店で「三文餅」も復刻【中津川市

江戸時代、中山道落合与坂の白木番所隣で大繁盛していた立場茶屋「越前屋」が約150年ぶりに"水琴窟のある喫茶店"として復活。築200年といわれる家屋を生かし、名物だった「三文餅」も復刻して話題を集めています。 
越前屋を営んだ塚田家の現存する記録で最も古いものは宝永7(1710)年で、当主は14代目。歴史ある建物や庭、中山道の面影を残す景観を観光資源にできないかという周囲の勧めで、今年2月から改築。5月にオープンさせ当主の妻、塚田恵さんと友人が切り盛りしています。一部二階建てで約200平行㍍の店内には、太い梁を生かした囲炉裏ルームがあり、庭の水琴窟は実際に音を聞くことができる貴重なもの。古文書に記されている名物の三文餅も復刻し、お茶と漬物付、200円で提供しています。 
「外国人中山道ウオーカーにも大変好評をいただいています」と塚田さん。「建物も周囲の景観も、新たに作ることはできないので、大切にしていきたい」と話しています。

恵峰HN (2019年6月15日 10:00)

※掲載内容は投稿日時現在の内容になります。ご注意ください。

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