紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

御嶽神社 覚明霊神社

御嶽神社 覚明霊神社
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「開山覚明霊神百五十年祭碑」
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komainu.orgより

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覚明神社(中津川市子野)

覚明とは御嶽山への通路を開き、頂上にて大往生を遂げたと伝えられている行者さんで、天明5年(1785)5月5日に木曽御嶽山を開くため中山道を通り、ここ槙坂の茶屋で泊まったおり、主人佐次兵衛一家が皆でもてなし、その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈ったと云われています。その開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭ったのがこの神社の始まりです。

(この文章に添えられていた写真は、「神社外観」、「神社入り口」、「開山覚明霊神百五十年祭碑」、「御岳神社文字碑」、「様々な霊神碑」、「御岳神社」)

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shugen-jitsukaga.weblike.jpより

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槙坂の覚明神社

岐阜県中津川市中津川子野  2010年4月24日
中山道の子野の一里塚跡から南に向かい、150mほどの槙坂を登り切ると右側に立派な石組みで築かれた神社が見えてきます。石段を上がって境内に入ると霊神碑が立ち並び、その中にひときわ高い実利霊神の碑が建っています。平成22年(2010)4月、初めて訪れた時に神社名を探したのですが、それらしき名称を見つけることができませんでした。鳥居をくぐって入った境内に「御嶽神社」と刻まれた石碑を見つけ、さらに地図にも同じ表示がありましたので「御嶽神社」として紹介しました。その後インターネットなどの情報から「槙坂の覚明神社」と呼ばれていることが分かりました。今後は「覚明神社」と改めて紹介させていただきます。向かって左に隣接するのは「御嶽教槙坂覚明教会」です。

尾張出身の覚明行者は、木曽御嶽山の登拝を大衆に開放する意志を持って御嶽山に向かいました。登拝はそれまで道者や七十五日ないし百日間の御嶽潔斎行(重精進)を経た者など、限られた者にしか許されませんでした。覚明行者は軽精進による大衆の登拝を実現しようと麓の村々を廻り説得に努めましたが許されませんでした。天明五年(1785)意を決し賛同者や信者を引き連れ、登拝を繰り返し強行して牢に繋がれました。翌年からは登拝を強行するだけではなく御嶽山黒沢口登山道の改修に着手しました。そしてその年の6月20日御嶽山の二の池を見下ろす高台で、志なかばにして病に倒れ69年の生涯を終えました。二の池の畔から南へ300mほどにある入定の地となった高台には、二の池を見下ろすように覚明行者を祀る霊神場があります。また、行者の遺体は黒沢口登山道九合目半に建つ覚明堂の正面の霊神場に埋葬され祀られています。覚明行者の没後、次第にその行跡が認められ寛政四年(1792)には軽精進が正式に許可されました。その後江戸の普寛行者によって新しい王滝口登山道が開かれました。

覚明行者が木曽御嶽山に向かう途中、恵那山で十七日間の断食修行を行いました。その修行を終え、当時「覚明神社」の建つ場所にあった槙坂茶屋で休憩をしてもてなしを受けました。翌朝茶屋の主人に依頼された祈祷が評判を呼び、大勢の人に祈祷を頼まれるようになりこの地で三年間過ごしました。 覚明行者の没後、茶屋の主人古根佐次兵衛が祀ったのが「覚明神社」の始まりと伝えられています。

(5/12 2014)

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ontakejinja.jpより

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行 者 列 伝

覚明行者

 覚明行者は享保3年(1718)3月3日に、尾張国春日井郡牛山村の農夫清左衛門の子として生まれ、母を千代といった。
家が貧しかったので、土器野村の新川橋辺の農家に引きとられて養われたという。

 木曽の大桑村上郷の田沢家の伝承によると
「覚明様はもと魚商人で名古屋の方から木曽へ行商に荷物をかついできて家(田沢家)へもよく泊ったり休んだりしていった。
木曽の地理はとてもくわしかった。
そのうちどうしたことか、さっばりこないと思っていたら、何年かたって今度は行者になってやってきた。」といっている。

 行者が御嶽登拝を目指して木曽へ来て、第1回の登山をおこなったのは天明5年であり、
連城亭随筆の筆者の村へ覚明行者として訪れたのは天明6~7年のことであるから、
行者の名が御嶽登山をおこなって後になってからその郷里にも知られるようになったものであることがうかがわれるものである。

 王滝村滝氏所蔵の『神社留記』によると
天明4年、5年の両年にわたって黒沢村の武居家へどこの国のものかはっきりしない坊主が来て
御嶽登山を許可してくれと頼みこんできたが、
登拝は古来より百日精進の重潔斎でなくてはならないとして許可しなかったところ、
天明5年にはついに許可を待たずに6月4日8人、14日には30人余り、28日には7、80人余りが
御嶽山大先達覚明という旗をおし立てて登ったとしているから、
天明4年に御嶽登山の念願のもとに黒沢村へ来たものであることが知られる。

なおこの記録によると「此坊主名古屋通り松にて3年以前(天明2年)御追放にて山賊の張梵切支丹の様相見へ申侯。」とあるから、
この以前から行者として相当の活動をしていたことが知られるし、
名古屋を追放された行者は中山道を下って木曽に来たものと考えられる。

 大桑村野尻には覚明行者が古瀬屋に宿泊し、古宮の滝という所で修行をしたことがあると伝え、
また行者は福島の願行寺(福島に居館した、木曽代官山村氏が比叡山や東叡山にならってその鬼門鏡護とした天台宗の寺院)
覚円法印に師事したと伝えているし、
さらに開田村の西野、未川には、覚明行者が布教の途次この地に赤松の生えているのを見て稲作の可能を説き、
開田を勧めたとしている伝承があり、村の作次郎という、福島・西野間の持子をしていた者が行者の強力をつとめたという伝承もあって、
御嶽登山をおこなう前、行者が山麓諸村落の間を布教して回ったものであることがうかがわれる。

 『連城亭随筆』には行者が川へ棒を浮かべてその上を伝って渡る術を持っていたことを述べており、
また王滝村の『神社留記』にも 「霞を自在に仕り、御体も己が自由自在に仕り、怪敷き事にて諸人の目を驚し申候」とあるから、
その法力がすぐれており、山麓の村々においても多くの信徒を得ていたものであることがうかがわれる。

 行者が初めて黒沢へ来たときの様子を伝えるものとして
「黒沢村の某が福島の半夏の馬市に出掛けての帰りみちに合戸峠で覚明行者に行合い黒沢へ案内して来た。
そしてねんやへ連れていって登山のことをたのんだが
百日の精進をしたものでなければ登らせるわけにはいかないといって許されなかった。
それで田中の庄屋のところへいったが田中でも、
ねんやと福島の代官様の許しがなければ到底登山することはできないといって諭したので、
あきらめて帰っていった」
という口碑が残されているが、鎌倉時代以来御嶽の支配者としての地位を与えられていた黒沢村の神官武居家では、
軽精進によるみだりな登拝は数百年来続けられてきた重潔斎による登拝行事の慣例を破るものであり、
御嶽の神威を犯すおそれがあるとして行者の請願を却下したものである。

しかして行者は御嶽軽精進登拝の念願を捨てることができず、
天明5年(1785)6月登山を強行するに至ったものである。
この間の事情は「覚明行者による黒沢口登山道の改修と軽精進登山の許可」のところで詳しく述べたとおりである。

 天明6年行者はさらに信徒を引きつれ登拝をおこなうとともに、
黒沢村薮原の仙長九郎等の協力を得て登山道の改修のことにもあたろうとしたが、
この事業遂行の中途で病のおかすところとなり、
ついに天明6年6月20日御嶽山の二の池の畔で入定しその生を終えるに至ったものである。
ミイラ化したその遺骸は信者たちによって9合目に葬られた。
現在の覚明堂の場所がそれである。
行者の没後その功績が認められ、寛政4年に至って武居家より軽精進登拝の正式許可があり、
これによって御嶽信仰木曽一円の信仰から全国的な信仰へと拡大されていく端緒が作られるようになった。
この偉大なる功績に対し、嘉永3年(1850)7月覚明行者に対して、上野東叡山日光御門主より菩薩の称号が授けられている。
黒沢の赤岩巣橋の霊神場の覚明行者の霊神碑はこのとき建立されたものである。

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