紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

永福寺観音堂と仁王門

永福寺観音堂
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案内板
「 市有形文化財
慈眼山永福寺観音堂
所在地 塩尻市大字塩尻町一二二三番地

永福寺木曽義仲ゆかりの地で元禄十五年(一七〇二年)現在地に伽藍と木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊とする朝日観音を建立したがその後焼失した。安政二年二月(一八五五年)当時の社寺建築士界の第一人者である二代立川和四郎内匠富昌が請負い工事中翌三年十一月四日彫刻用材の大けやきの枝おろしの際七十四才で死去した。初代立川和四郎富棟は諏訪の大工棟梁で全国に名作が多く、幕府から内匠の称号を受け『立川流和四郎』の名で、建築にすぐれた。二代富昌は彫刻に名作を残した。観音堂は正面三間、奥行四間、入母屋造り妻入り向拝付で屋根は茅葺き箱棟である。母屋の柱間の中備は十二支の彫刻を計画したが正面に一つあるのみ しかし向拝殿の中備の竜は迫力ある彫刻であり全体としては未完成だが立川流の手法が見られ二代富昌の最後の作で不慮の事故によっての終えんの地である。

塩尻市教育委員 」


仁王門
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案内板
「 市指定有形文化財(建造物) 永福寺仁王門 一棟
指定 平成二十年一月十八日
(所在地 所有者 割愛)
仁王門 三間一戸楼門、
桁行七・四メートル、
梁間四・四メートル
入母屋造、平入、桟瓦葺
附 棟札 二枚

永福寺仁王門は、明治二十六年(一八九三)より着工、同二十七年に上棟された。棟梁は立川(立木)音四郎種清である。立川音四郎種清は下諏訪町天保十三年(一八四二)に生まれ、その後、立川流二代目立川和四郎富昌の弟子となり、県内各地をはじめとして明治二十一年の皇居造営にも携わる。
仁王門は、入母屋造り、平入、桟瓦葺、三間一戸の楼門である。一階組物は出組、二階は三手先とし、軒は扇垂水とする。また、二階四周に擬宝珠高欄付きの切目縁を廻す。柱間は一階前面を吹き放ちとし、正面両脇は仁王様を収めるために前面を開放し格子をはめ、その他は板壁とする。二階では正背面中央を引き違いの格子戸とする他は板壁とする。妻飾りは狐格子に猪の目懸魚を備え、小屋組は和小屋で束や登梁により棟木を支持する。一階柱上の木鼻は正面内側二つが麒麟、両外側が貘、背面両側二つが獅子、両外側が像となる。背面東側の像の牙の一部に彫り残された箇所があり、興味深い。
仁王門では、伝統的寺院建築の構成を基調とし、木鼻をはじめ建物彫刻に立川音四郎種清の高い力量がよく示されている。なお境内には、別に市指定有形文化財(建造物)である観音堂があり、立川富昌、富重、種清と立川流工匠の手になる建造物をあわせて見ることができる。
塩尻市教育委員 」