案内板
「 長久寺・定光寺跡
長久寺(金峰山長久寺 曹洞宗)
天正年間に奈良井義高 が開基し、開山は長興寺三代の康翁寿泰大和尚、二世は充澤普和尚で、勢州渡会郡小林氏と縁あって当所へ来たる、と記されている。正徳三年(1713)には、千九百坪の地内に、客殿・衆寮・庫裡・十王堂など百二十二坪が建立されていた。慶応四年二月松本藩は東山道軍に当寺で勤皇の誓約を行った。明治四年、松本藩の厳しい廃仏毀釈により、十五世関宗和尚で廃寺となった。木材の一部は清行学校(下問屋跡)の校舎として使われた。
常光寺(小沢山常光寺 真言宗)
信濃三十三番札所のうち第二十一番
御詠歌『本山や 常の光の御寺にぞ 有明月に朝日かがやく』
中世からの古寺で釜の沢奥にあった。以下の伝承が残されている。
『奈良王という者、牛に経巻をつけて伊那路を超え、釜の沢に出る途中、山中に観音様を見つけたので、堂を建て安置し、そこを堂平といった。その後、宿入口に寺を建て小沢山常光寺と称した。天正の頃、堂塔焼失したので僧なく無住となった。』
天正十年(1582)七月小笠原貞慶 と木曽義昌 の戦いがあり、観音堂付近で小笠原家臣が戦死した。
また天和年間(1680年頃)に耶蘇教であったため廃寺になったとも伝られている。以後幕末まで、長久寺領の常光寺観音堂として残った。
木曽名所図会 に、『本山観音 信濃巡礼二十一番也』と記されている。
明治四年の廃仏毀釈で、観音堂は宝輪寺(松本市今井)に買いとられ再建された。本尊の十一面観音は行方不明になっていたが、明治九年に篠ノ井の岡沢彦次郎氏が偶然知った古物商から買い取り、信濃二十一番岡田札所常光寺として、お堂を建立して安置し現在に至っている。」