紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き21日目前半の2(石部宿)

2度目の東海道21日目前半の2

7月10日(水)の2

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【石部宿東の見附跡と石部城跡】

10:59 石部東の交差点を過ぎ、

11:02 石部宿東の見附跡
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案内板
「 東の見附は目川屋より三十メートルばかり東にいったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた巾三メートルばかり高さ二メートル程度の台場であり、石部宿場の両入口にあった。
枡形城門の俗称で番兵が通行人を見張るところから、見附と言われた。
石部宿には、東西二ヶ所に設けられていた。 」

昔を偲ばせる素敵な家。
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このような、昔を偲ばせる家もいくつか見かけましたが、実は昔ながらの石部宿の宿場を丸ごと移転したテーマパークがあるそうです。

ぶらりこなん(湖南市観光ガイド)より

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宿場町をそのまま「石部宿場の里」へ。江戸の暮らしがここにある。


旧街道から離れ、南のほうへテクテクと歩いて約20分、雨山文化運動公園の敷地内にあるちょっとしたテーマパークです。入り口の関所を抜けると、目の前に広がるのは、江戸時代末期の農家や商家、旅籠、茶店などを再現した町並み。どの建物も細部まで作りこまれ、間口が狭く、奥行きは広いといった俗に「うなぎの寝床」と呼ばれる当時の建築様式も忠実に再現されています。旅籠「いしべ屋」に入れば、洗面桶やかまどなどの道具もリアルで、本当に江戸時代へ迷い込んだような錯覚を覚えるかもしれません。

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関所の門、農家、旅籠、商家、茶屋、蔵などがあり、それぞれ中も公開されているそうです。

11:11 石部中央交差点には、東側に4枚、西側に2枚の案内板があります。

その内の一枚が写真の石部城跡の案内板。
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「 石部宿 石部城跡

亨禄年間(一五二八〜一五三一)に築城され、城主は石部久綱。佐々木承禎と織田信長の戦いで、信長の家臣佐久間信盛に攻め込まれ、元亀元年(一五七〇)に落城し、三年後の天正元年(一五七三)に廃城した。
貞亨元年(一六八四)城跡の北側に建立されていた菩提寺を移転し、現在の菩提寺として一部石垣が残っている。(ここより南に100メートル行ったあたり)
石部氏は約四十年間、城主であった。

湖南市観光協会


【高札場跡、安民米倉庫、お半長右衛門】

同じく石部中央交差点東側のあと三枚の案内板。

高札場跡
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「 高札場跡

高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、現在の県道一一三号線(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで、問屋場の横にあったと伝えられている。
約八十センチメートル程度の高さの石垣の上に立っていた。
元禄の頃はみのや橋の横にあったが、いつの時代か、問屋場の横に移転された。

湖南市観光協会


安民米倉庫
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「 安民米倉庫

明治十三年に服部善七氏により、安民米(救済米)制度が創設されました。
植付時に百姓は食べるものが無く、安民米を一農家に一俵貸付、収穫時に年貢として五升をおさめ、その五升は教育費に充てられました。
現在は雨山文化運動公園内にある石部宿場の里に安民米倉庫が再現されています。

湖南市観光協会

今、BSプレミアムで朝7:15から「おしん」の、一体何回目なのか、の再放送をやっていて、小作農家の悲惨な情況を見るにつけ、こんな安民米倉庫があったらどんなによかったか、と思います。

気になるのは、貸付ということは一俵はまるまる返して、さらに五升の年貢を納めるのか?それとも、返すのは五升だけ?

米一俵は四斗。一斗は十升。この計算でいくと、年貢は一俵の8分の1。

ただし、一俵が四斗(約60kg)と定められたのは比較的最近の話で、昔は一俵と言ってもちゃんとした決まりがなかったそうです。


お半長右衛門
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「 お半長右衛門

京都の帯屋の主、長右衛門がお伊勢参りに行く途中に宿泊した石部宿の旅籠(出刃屋)で、丁稚の 長吉に言い寄られるお半をかくまったところから、二人は結ばれることとなった。
しかし、妻のいる長右衛門との道ならぬ恋に苦しんだお半は死を選び、遺書を見た長右衛門もお半の後を追い心中を遂げる。
この石部宿に伝わる悲恋の民話の舞台となった旅籠は、問屋場より西の方角にあったと言われる。
(人形浄瑠璃作者菅専助の脚色)

湖南市観光協会


お半長右衛門、人形浄瑠璃の題材としては面白いけれど、それじゃあ奥さんがあまりにかわいそう。

めかけの一人や二人、というほどの大店
ではなかったんだな。

江戸時代は大名に子どもがいなかったらお家断絶だから、お妾を何人ももつのは合法でした。商家でも大店では当たり前だったようなので、道ならぬ恋、と嘆くのは、残念ながら長右衛門はお金持ちじゃなかったんでしょう。

でも、旅先で全く知らない女性と心中されてしまった奥さん、可哀想。

焼きもち妬いてお半をいじめた、なんてことはなかったわけですからね。


【常盤館跡、問屋場跡、三大寺本陣跡】

石部中央交差点の西側には2枚の案内板がありました。

常盤館跡
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「 石部宿 常盤館跡

石部中央道の辺広場より南へ約五〇メートル行った殿城道あたりにあった。二階建てのかなり大きな建物であり、席は前列の左右が一等席、その後ろが二等席、中央が枡席になり、一番後ろが三等席で、その他は桟敷席になっていた。二階は特等席であった。中央に回り舞台が設置されており、このような規模の芝居小屋はこの付近にはなく、遠方から観客が集まったと伝えられる。大正八年に火災により焼失し、その為に当館の資料はなにも残っていない。

湖西市観光協会


石部中央交差点に案内板を集め、公園のようになっているこの場所を、「石部中央道の辺広場」というんですね。

常盤館が芝居小屋だったという説明が冒頭になかったため、説明の中で突然「前列の左右が一等席、その後ろが二等席、中央が枡席」と書いてあって驚きました。

案内板左下の写真を見ると、芝居小屋らしい旗幟がたくさん立っていますね。

少し上方から撮った写真ですね。今ならドローンやクレーンなどいくらでも考えられますが、大正八年以前のことですから、向かいに火の見櫓でもあったんでしょうか。

資料が焼失しているのに、席の分布が分かっているということは、当時を覚えている人から聞き取ったんですね。昔を覚えている人々が高齢化し、他界される方もいらっしゃるでしょうから、貴重なお話を聞いて残したことに意義がありますね。


問屋場
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「 石部宿 問屋場

石部宿の問屋場は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立事務的)を行なう場所を問屋と呼び、いつも役人が三人〜五人在中し、人馬の継立をする必要な仕事を分担して賑わっていました。
場所は、石部中央の信号から北へ百メートルほどの砂川の東側にあったが、後に信号の北西の角にあたりに移ったと言われています。

湖西市観光協会


二度目の東海道歩きですが、10年前も高札場や問屋場、一里塚跡など写真に撮って歩きましたが、高札場や一里塚跡は当時も意義を分かっていましたが、問屋場跡は実は今回、はっきりと意味がわかりました。

江戸時代、公用の荷物の運搬を、人足や馬の背で運びましたが、宿場ごとに人足や馬を交代して荷を引き継いで運んでいました。その引き継ぎ業務、馬と人足の手配をする業務を行うのが問屋場で、問屋場には常時、馬や人足が待機し、不足した場合は近隣の村から馬や人足を集める助郷業務もおこなっていたわけです。

今の宅配、運送業は車があるから速いけれど、人足と馬で行っていた時は大変だったことでしょう。


石部中央道の辺広場を後にして、ほんの1分ほど歩くと、三大寺本陣跡があります。
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案内板
「 石部宿 三大寺本陣跡

参勤交代の制が定められる七年前、寛永五年(一六二八)より、明治三年(一八七〇)まで、二四二年間営業した。幕末の図面によれば、間口一八間半(約33.5m)、奥行き東方二九間(約52.5m)、西方二〇間(約36m)であり、建坪数は小島本陣より少ないが、畳敷き室数では変わらず、収容数は同等であったと考えられる。
消失再建を繰り返し営業した。

湖南市観光協会
協賛 石部学区町づくり委員会」

三大寺本陣跡は床屋さんだったみたいですが、今は営業はしていないみたいですね。


【榊とびしやこ】

11:16 榊とびしやこを売っている店
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本日は定休日だそうです。

「びしやこ」って何?

日本榊本舗HPより

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一般的に榊(さかき)といわれているものには、実は2種類のものがございます。
「本榊(ほんさかき)」は社頭 の装飾として創定されている伝統の樹木。近縁種「ヒサカキ」とは、また異なる美 しさと格式があります。しかし、榊(さかき)が育成しない地域(主に東日本)では、「ひさかき」という種類の植物を「本榊(ほんさかき)」の代用として利用してこられました。
「ひさかき」といわれる由来は、榊にあらず(非榊)とも云われていますし、本榊(ほんさかき)よりも葉っぱの大きさが小さいので、姫榊(ひさかき)といわれるなど、諸説あります。

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ヒサカキの別名を調べたら、

ビシャコ、ビシャ、ヘンダラ、ササキ、
アクシバ、コウヤシバ、イヌサカキ、ソメコノキ、インキノキ、ハナシバ、ハカシバ

など。ビシャコは榊が自生しない関東以北で榊の代用品として使われているようです。


【小島本陣跡】

11:16 小島本陣跡・明治天皇聖蹟
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案内板
「 石部宿 小島本陣跡

石部宿には、幕府直轄と、膳所藩直轄の二つの本陣が措かれ、全盛期には二百十六軒の商家や、六十二軒の旅籠が並び、東海道五十一番目の宿場として栄えました。数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安三年(一六五〇)に創建されましたが、膳所藩主本多俊次、康将二代への小島氏の顕著な奉公により、承応元年(一六五二)に本陣職を許されました。

湖西市観光協会


【田楽茶屋】

11:20 田楽茶屋
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広重が描いた茶屋を再現していて、お食事が出来ます。

ここでお昼を食べましょう。

絵手紙は10年前のブログ用に描いたもの。10年前は食事はしませんでした。
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案内板に書いてあるのは、
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案内板
「 石部宿 田楽茶屋

 石部宿は、東海道51番目の宿場町として栄えました。
 歌川(安藤)広重が天保3~4年(1832~1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。栗東の岡に『京いせや』『こじまや』『元いせや』の三軒の代表的な田楽茶屋あり、ここは平成14年旧石部町制百周年記念事業として再現されました。

  湖南市観光協会

広重の石部宿
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茶屋には「いせや」と書いた小暖簾がたくさん並んでいます。
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茶屋なので、うどんぐらいしかないのかなあ、と思ったら、とろろそば定食や、田楽、そしてなんと、本日のランチがあるではありませんか!

税込800円というお値段で、黒板に

あじフライ
鶏とアスパラのゆず胡椒風味
里芋とイカの煮物

とあったので、3つのうちどれかを選ぶのかと思ったら、3つとも載ってきました!

それも、それぞれがなかなかのボリューム。それぞれ美味しかった!
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私は田楽も食べたくて、でも、いわゆる田楽(豆腐に三種類のみそが乗るやつかなあ)は500円と、ランチの他に頼むにはちょっと値が張るので、田楽もち2個で300円というのを頼みました。
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コーヒーを付けるか聞かれましたが、多分これだけでお腹いっぱいになりそうなので、来てからお腹と相談します、と言っておきました。

コーヒーを飲むとトイレが近くなるから避けたい気持ちもあったし、ランチ800円に田楽もち300円を付けると1,100円。ここでやめておこう。

ランチは美味しかった!

サラダにかける自家製ドレッシングも美味しい!玉ねぎのすり下ろしを入れているそうです。

田楽もちも美味しかった。白い甘い味噌でした。お餅も粒を少し残した衝きたて餅風でした。

最初に冷茶(煎茶)を出してくださり、とても美味しかったのですが、水なら気軽におかわりをお願いしたのだけれど、こんなに美味しい冷たい煎茶のおかわりは頼みにくいなあ、でも、お餅が甘くてお茶飲みたいなあ、と思っていたら、熱いお茶を出してくださいました。

どこからいらしたんですか?とか、今日はどこまで?と聞かれて、明日が雨の予報なので、今日、京都まで行ってしまいたい。ただし、草津から大津はつい先日歩いたので、そこは抜かして、と話したら驚いていました。

言ってしまったからには、夜になっても、真っ暗になっても歩き続けて、這ってでも京都三条大橋に行きます!

ところで、田楽って、知っているようでうまく説明できない。

10年前に歩いたときは、岡崎城公園の茶屋で田楽を食べたら、三本の串に三つの豆腐が刺さっていて、炙ってあって、それぞれ乗っている味噌が違いました。

木の芽味噌、ゆず味噌、八丁味噌だったと思います。

今日の田楽餅は、西京味噌かな?

田楽について調べてみました。

日本大百科全書(ニッポニカ)より

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田楽(料理)
でんがく

豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに調味みそをつけて焼いた料理。田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせが一見、白い豆腐に変わりみそを塗った豆腐料理に感じが似ているので、この名があるという。江戸後期の川柳に「田楽は昔は目で見、今は食い」と、ある。そのころ、田楽はいろいろの形のものが全国的に各地各様の形式や材料でつくられ、茶店などの軽飲食店では主たる売品としているものもあった。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』のなかでも、食べ物としては田楽がいちばん多く出てくる。江戸中期以降の園遊会には、料理は田楽が主として用いられていた。江戸田楽の串(くし)は先が分かれていない1本の棒で、関西は二またになった串が使われていた。江戸の串はその後3本足になったが、これは近江(おうみ)(滋賀県)目川で古くから用いられていた。目川田楽は豆腐を葛煮(くずに)してどろっとした味にするのと、3本足の串だから崩れにくいのが特色で、園遊会向きに好まれ、江戸田楽はこの形式を取り入れるようになった。
 田楽の応用料理は数多くある。魚を焼いてみそをつけたものを魚田(ぎょでん)という。アユの魚田は秋に成育して川口近くに下ってきた落ちアユを用いるのがいいが、若アユの魚田もある。ハゼ、ヤマメ、イワナなども魚田に適する。いも田楽はサトイモを下煮してみそをつけたものである。徳島の郷土料理に「でこまわすで」といういも田楽がある。この地方で有名な阿波(あわ)人形をでこという。いも田楽が熱いのでふうふう吹きながら串を回して食べるかっこうが、阿波人形を踊らせているのに似ているのでこの名がつけられた。
 田楽は、おの字をつけてお田楽となり、楽がとれておでんになり、料理も今日の煮込みおでんへと発展した。[多田鉄之助]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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田楽茶屋は、私がいた時間は私しかお客様がいなくて、経営が成り立つのかな?と心配になりましたが、電話がかかってきて場所を聞いていまから来る人がいるみたいです。

でもあとで知ったのですが、田楽茶屋は電話番号非公開なんですって。

以前にいらしたお客様の紹介かなあ。


西見附、西縄手】

11:56 西の見附跡
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案内板
「 石部宿 西の見附跡

見附は枡形城門の俗称で、番兵が通行人を見張ることから『見附』と呼ばれています。
東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西二ヶ所にありました。
見附の西側には、目見改場(めみえあらためば)が設けられていました。

湖南市観光協会

写真のような素敵な家もありました。
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12:02 西縄手
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案内板
「 石部宿 西縄手

縄手とは、立場から立場の道の事を言い、石部宿の西にあたることから、西縄手と呼ばれていました。
江戸時代、ここは宿内に入る前に参勤交代の為の大名行列を整列した場所で、長い松並木がありました。

湖南市観光協会

西縄手は、石部宿と書いた燈籠や、横長い黒石に東海道五十三次の宿場名や絵を彫り込んだ碑が置かれた広場になっていました。


2度目の東海道21日目前半の3(石部宿外れから草津宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/06/002040