2度目の東海道21日目前半の1
7月10日(水)の1
【水口石橋駅からの出発】
夜行バスで朝5:45に南草津駅に着きました。
国道1号線沿いにあるマックで朝食、着替え、メイク(日焼け対策)。
最初の予定では、今日は草津まで歩き、草津〜大津は先日歩いたのでパスして、明日、大津〜京都三条大橋でフィニッシュの予定(全行程22日)のつもりだったのですが、明日が一日雨の予報なので、今日頑張って34キロメートル強歩いて京都まで行ってしまおう、そうすれば全行程21日で踏破出来る、という心づもりの本日。
例え暗くなっても歩き続けるためには、跳ばさない。ゆっくり長く歩く。
南草津駅に荷物を預けにいったら、コインロッカーが満杯。もう電車の時間まであまりないけれど、急いで今夜泊まる東横INNまで行って預けてきました。
間に合った!
南草津駅6:50発に乗り、次の草津駅で草津線に乗り換え、終点貴生川で近江鉄道に乗り換え、水口石橋駅に着いたのが7:46。
曇っているのでとりあえず帽子はかぶらずに歩きます。
電車の中には、三校ぐらいの高校生が乗っていました。制服の違いと降りる駅の違い。
水口石橋に着いてからも、自転車の高校生とたくさんすれ違いました。
歩き始めて5分ほどで、写真の交番。
さすが宿場町の交番は、町の雰囲気に合わせて交番の佇まいを作っています。
【古民家利用とヴォーリズ設計の教会】
水口は宿場町であり、城下町として栄えた町。今も素敵な古民家が残っています。
写真の古民家は、元は呉服屋さんでしたが、今は次の利用者を募集しています。
次に来たときに、古民家カフェか、古民家レストランになっているかも。
ヴォーリズ設計の、日本基督教団水口教会。幼稚園の看板も出ていました。
この写真は、「あやの みんなの居場所」
古民家を利用して、お年寄りや障がい者、こどもたちがいつでも居られる場所が一昨年オープンしました。あやの、というのは、ここ、綾野地区の名前です。
こどもたちのための学びの教室イベントや、こども食堂もやっているそうです。
【近江の灘】
甲賀市は、滋賀県の酒造の3分の1が集まっている酒処で、「近江の灘」と呼ばれているそうです。水口は甲賀市の中心地だったそうです。
水が美味しく、米作りにも適している土地だから、美味しいお酒も作れたのです。
美冨久酒造。
これは、美冨久酒造の前に展示されている、大正時代の消火ポンプで、美冨久酒造が火事に備えて置いていたそうです。
そこからさらに数分歩いた辺りに、紅殻(べんがら)格子が美しい家がありました。
【北脇縄手】
8:12 青田の広がる一本道に、「北脇縄手と松並木」の石碑がありました。
「 北脇縄手と松並木
東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。
江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。 」
この少し先、右側に、地蔵と
小社がありました。
【柏木公民館と干瓢干し】
自転車登校の高校生と何人もすれ違いましたが、「おはようございます」と、よく挨拶されました。
声を掛けてくれた子とかけない子、その差はもしかしたら、体育会系の子が声をかけてくれるのかも、と感じました。体格の差などで。
声をかけてくれたのは高校生だけではなく、通勤の女性の方も。
私から「おはようございます」と声をかけたこともあります。
8:25 柏木公民館。
公民館前に、鐘楼のモニュメントがありました。
そして、モニュメントの脇に窓があって、普段は閉じられている窓の扉を開けると、広重が描いた水口宿の絵の、干瓢干しの様子と、それを見ながら描いている広重の人形がいました。
干瓢干しは、三人とも女性。干している人、干瓢を持ち上げている女性は赤ちゃんをおんぶしています。少し歳上らしい女性は、まな板の上で、干瓢を細い紐のように剥いていました。リンゴの皮剥き競争みたいに切れないように細長く。
柏木公民館の職員さんが、地図をくださいました。
挨拶をたくさんしたおかげで、地図をいただけたような気がしました。
【横田の渡し】
8:47 分岐
舞込橋を渡ると少し先に、泉の一里塚跡。復元の一里塚があります。日本橋から114里目。
8:51 横田の渡し跡の常夜燈。
横田の渡しは、通常は土橋、水嵩が増すと船渡しだったそうです。
今は橋も船もないので、下流側に作られた横田橋まで行かねばなりません。
【忍者から探偵へ】
横田の渡しから県道535号線を行くと、右側にセブンイレブンがあったので、トイレを使わせてもらって、エスカップを飲みました。
9:06 湖南市に入りました。
甲賀市は忍者の町でしたが、コナンと言えば探偵。
なんだか面白いな。湖南市に住んでいるこどもたちは、名探偵コナンはものすごく親近感をもっているんじゃないかな。
9:12 朝国横断歩道橋を渡りました。
スロープがあるため、自転車が走って渡っていました。
9:15 横田橋を渡りました。
河川敷は木や草で緑が深く、肥えているなら畑を作れるんじゃないか、と、ベトナムのバナナ畑を思い出しました。
橋の右横に、昔使われていた橋の柱でしょうか。残っていて、でも、柱が倒れているところもありました。
【三雲駅の先、荒川橋を渡る】
9:20 三雲駅の前、「微妙大師萬里小路藤房卿墓所妙感寺道標」
この道標、写真を撮ったのに、編集していたとき眠かったのか、間違って消去しちゃいました。
今まで見てきた明治天皇聖蹟碑は大抵縦長いのですが、今日見たのは横に広がっていました。
この先暫く進むと、二つの踏切と、右側に橋が見えるのですが、私はちゃんとガイド本を読まずに踏切を渡ってしまいました。
でも暫く歩いて、道の右側に川が流れているのはおかしいと気づき、よく地図を見たら、さっき踏切を渡ったのは間違いで、右側の橋を渡らねばならなかったことに気付き、戻りました。
戻って正しいルート、荒川橋を渡ったのは9:33
渡ると
写真の古い道標などがありました。
向かって一番右は、「田川ふどう道」
真ん中は、
左面に「萬里小路藤房卿墓所」
右面に「雲井照ヤマト妙感寺従是十四丁」
一番左は、立志社道標です。
9:39 三雲踏切を渡ります。
【季節は移り行く】
9:41 旧東海道道標
9:15 こんな素敵な門の家がありました。
ノウゼンカズラがきれいに咲いていました。俳句では、凌霄花 (のうぜんか)と言い、夏の季語です。
二度目の東海道を歩き始めたのは3月。
4月には桜が咲いて、薔薇、紫陽花と、移り変わり、ついに夏の花に出会いました。
そして、私たちは、今日、卒業です。卒業です!
(ブログでは、21日前半で草津まで。次に20日目の、草津〜大津、そして、21日後半で大津〜京都三条大橋ゴール!という順番でアップしていきますが、ここを歩いていた時点では、もう今日の夕方には京都三条大橋に着く!という思いで歩いています。)
【天井川と弘法杉】
9:48 おもてなし処
この地域には、おもてなし処が数ヶ所ありましたが、ベンチとスタンプがあるけれど、トイレと自動販売機はありませんでした。
9:48 大沙川隧道
天井川です。天井川とは、 川の流れが運ぶ土砂(どしゃ)が堤防内にたまって、川底が周囲の地面よりも高くなってしまった川です。
そして、大沙川隧道を抜けて左側の斜面を上った上に、弘法杉があります。
滋賀・びわ湖観光情報より
弘法杉
↓↓↓↓↓↓↓↓↓〜
天井川になっている大沙川の堤の上にそびえる大杉は、幹の回りが6m高さ26m樹齢750年と言われて「弘法杉」。
弘法大師がここをとおりかかった時に、眺めが良かったこの場所を昼食場所に選びました。その時に使用された杉箸を堤にさしました。後にそれが成長して大杉になったと伝えられます。
以前は二本の大杉で、近江名所図会には二本杉として描かれていました。江戸時代に一本は台風の為に折れて枯れてしまいました。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
また、この杉の木で箸を作ると、左利きの子が右手で箸を持ってごはんを食べると言われ、この木を切りに来る人が多かったため、下の方に枝がなくなってしまった、とも言われています。
【夏見から針】
10:16 夏見の一里塚跡案内板
日本橋から115里目。既に失われていて、この辺りに一里塚があったという案内板だけ。
それも、写真付きなのでかつての姿かと思ったら、形が昔のまま残っている貴重な一里塚ということで、愛知県の笠寺一里塚の写真でした。
10:21 由良谷川隧道
10:28 はり休憩所
針・灸の針の治療院かと勘違いしたら、針という地名なんですね。
ここのトイレを借りました。
【歩く旅は人を哲学者にする】
10:35 北島酒造
東海道を歩いていて、昔ながらの建物が残っているので一番多いのは、酒造かもしれないな、と思います。
10:38 常夜燈
家棟川隧道扁額(やのむねがわずいどうへんがく)
案内板
「この場所から約50m先の交差点付近に
は、以前天井川の家棟川があり隧道(トンネ
ル・マンポ)がありました。
旧東海道の家棟川隧道 は長さ21.8m 、高さ3.6.m、幅4.5m、欠円アーチ断面で、両側壁とも花崗岩切若積みで、1886年(明治19年)に築造、家棟川の平地化に伴い、1979(昭和54年)3月にその姿を消しました。
当時のものとして、県令(知事)中井 弘 筆『家棟川』の扁額( 題額)
が、ここに残されています。
現存する隧道は、1886(明治19年)に竣工した由良谷川隧道 と、1884(明治17年)竣工の大沙川隧道の二ヶ所で国の重要文化財に相当する土木遺産と評価されています。
中井弘(1839年~1894年)
1884年~1890年 滋賀県令・知事を務める。日本の武士(薩摩藩士)、外炎管、政治家。
書家としても知られ、鹿鳴館の名付け親でもある。
平成26年6月(2014)
三雲学区まちづくり協議会 」
天井川は水が枯れて川でなくなり、隧道も廃止されつつあります。
今、天井川で残っているのは大沙川隧道と由良谷川隧道だけ、とここには書いてありますね。
弘法杉を見に、大沙川隧道を上ったら、水はありませんでした。あそこもいずれなくなっちゃうのかな。でも、そうしたら弘法杉も風前の灯火。
今後、残るのか、残らないのか。
扁額は、門や鳥居などの高いところに掲げられた額で、寺社名が書いてあるものが多いですが、ここでは、トンネルのアーチの上に書かれたトンネルの名前なんですね。
東海道を歩いていて、昔の橋の親柱の名残や、石柱で半分埋まってしまったものや、風化して字が読めないものなど、歴史を感じるものにたくさん出会いました。
芭蕉が平泉で、
「夏草やつはものどもが夢のあと」
と詠みましたが、ここは古戦場ではないけれど、たくさんの旅人や人の暮らしを見てきた建造物の一部がひっそり残されているのは、寂しいし、でも、よくぞこれを残してくれた、と感謝の思いもあります。
歩く旅は、人を哲学者にします。
【うつくし松とべんがら】
10:41 うつくし松自生地の道標
観に行ってみたいけど、0.9kmか。今日は2日分を1日で歩くから、寄り道は出来ません。
うつくし松って、どう美しいんだろう。
調べてみました。
松愛会HPより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓
日本でここだけの扇型をした不思議な松の群生
~ う つ く し 松 ~
滋賀県湖南市(旧甲西町)の南西に標高631.1mの阿星山がそびえ、その眼下の標高226.6mの美松山の南東斜面に、不思議な松が自生しています。
アカマツの変種で、一本の根から地表近くで放射線状に枝が分かれた、笠や扇のような珍しい樹形をしており、地元の人はいつからか「うつくし松」と呼ぶようになりました。自生地全体は特異な形態をなしており、その美しい景観は他に見ることができないと思われる。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
美松山の斜面だけに群生する、極めて珍しいマツ。劣性遺伝による変種といわれ、国の天然記念物に指定されています。根本近くから枝が放射状に分岐した樹形は、まるで扇か傘のよう。平安時代、藤原頼平が静養でこの地を訪れた際、松尾神社の使いの童女が現れ、周囲の山を美しい松に変えたとか。そんな伝説にふさわしい、神秘的なムードをたたえた名所です。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
滋賀・びわ湖観光協会HPからお借りしたうつくし松の写真。
世界で、ここでしか見られない。二度目の東海道なのに見逃したもの、結構ありました。
もしまた東海道を歩くとしたら、線で繋ぐことに拘らず、面白そうなものを点で見ていく旅もいいかもなあ。
写真のような美しい家もありました。
滋賀県に入ってから
べんがら格子の家が目につきます。
べんがらについて、調べてみました。
Katori.ccというサイトより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
赤い格子を弁柄格子といいますが、これは酸化鉄と削り炭を混ぜ合わせてにかわで溶いて塗ったモノです。
.弁柄の語源はインドの「ベンガル」地方のようです。インドではこの天然酸化物を仏像などを赤く着色するのに使ったようです。
.このインドの顔料は当時大変な貴重品で、オランダの東インド会社経由で長崎に17世紀初頭に入ったようです。ただし、弁柄は人類最古の顔料で日本でも天然採取のものが、縄文後期から使われており、古墳時代の石室の壁面などの赤彩色も弁柄だそうです。奈良、平安の寺院などの赤彩色も弁柄とか朱で、これは中国から入ったようです。
.日本では、宝永4年(1707年)に岡山県川上郡成羽町の吹屋というところで初めて国産製造されました。たしかこの町には復元した江戸時代の弁柄工場があって一般公開されているようです。
.有田の陶工、酒井田柿右衛門の有名な「赤」も弁柄(酸化鉄)によるものだそうです。
.酸化鉄は科学的に非常に安定しており(錆ですから)、錆止め塗料としては最高です。木材の防腐塗料、漆器、陶磁器の着色などとしても昔から使われてきました。今は、ビデオテープ、フロッピーディスク(磁性体)のマテリアルです。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
2度目の東海道21日目前半の2(石部宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/04/084933