紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き15日目の4(知立宿への道)

2度目の東海道15日目の4

5月28日(火)の4

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浄瑠璃姫】

11:11 弥五騰(やごとう)神社
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参道口に髭題目碑があります。


11:14 誓願寺
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岡崎おでかけナビ(愛知県岡崎市観光公式ホームページ)より

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誓願寺

牛若丸(源義経)と兼高長者の娘、浄瑠璃姫の、美しくも悲しい恋物語が眠る場所です。
承安4年(1177)、牛若丸は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとりました。ある日、ふと静かに聞こえてきた浄瑠璃姫の琴の音色にひかれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えました。 しかし、義経は奥州へ旅立たねばならず、矢作を去りました。姫が義経を想う心は日毎に募るばかりでしたが、添うに添われぬ恋に、ついに菅生川に身を投じて短い人生を終えました。

誓願寺は、義経浄瑠璃姫に贈ったとされる笛「薄墨」が安置されています。浄瑠璃姫の父兼高長者が、義経浄瑠璃姫の木像、姫の鏡などの遺品とともにここに葬り、十王堂を建てたといわれています。
また、浄瑠璃姫の管弦と義経の薄墨の笛を合わせて奏でて出会った場所でもあります。

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11:19 竊樹神社
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竊樹(ひそこ)の名の元になったのは
竊(ひそか)ひっそりと生い茂る樹木に囲まれた地域だったのかもしれません。


【ランチと薬師瑠璃光如来

11:36 国道1号線沿いにあった、鐘庵(しょうあん )という蕎麦屋さんに入ってお昼を食べました。暮戸東交差点の近くです。

のりラーメンと熟成まぐろ丼。940円。美味しかった。
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大雨なので、レインコートを一旦脱いで、人の邪魔にならないようにカウンターの隅に座りました。

蕎麦&どんぶりだから、まぐろ丼は小さめなのかと思ったら、しっかりボリュームあって、普段なら食べられないかもしれないけれど、歩いているのでペロリ。

のりは、表面を覆うようにたくさん入っているのに、口どけしてしまい、海苔を食べた実感が薄く、海の香りをいただいたイメージ。物足りない訳ではなく、美味しくてやみつきになりそう。

再びレインコートを着て、出発です。

この前の浜松から舞坂〜白須賀〜二川を歩いた日の前半は嵐だったからポンチョで正解でしたが、今回はかなりの雨とは言え風がないので、レインコートにレインズボン、靴は合成皮革の、ビジネスでも履けるウォーキングシューズ。今日濡れてしまうから、明日のためにいつものスニーカーもリュックに入れてあります。

リュックには雨避けカバーをかけてあります。そして、折り畳み傘。

ポンチョではないため、リュック以外の荷物が濡れてしまうので、ウエストバッグはレインコートの中に入れてあり、お腹のところだけ膨らんでいて、マタニティみたいになっています。


12:07 薬王寺
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案内板
「 和志王山薬王寺

奈良時代に創建されたと伝えられる由緒あるお寺です。ご本尊の薬師瑠璃光如来は、十七年に一度開帳される秘仏として本堂に納められています。
この寺に伝わる薬師如来縁起によると、尊像は和銅年間( 七〇八〜七一五年、奈良時代初)に、(現在の宇頭南町にあった)神の御手洗御立笠取(みたらいみたちかさとり)の池から光を放ってこの世に現れになった。この地に住んだ豊阿弥(ほうあみ)長者が念持物とされたが、後に、僧行基を開祖として、和志王山薬王寺を創建され納められた。そして子孫代々相続された。
時は経って淳和天皇天長六年(西暦八二九年、平安初期)春に疱瘡が流行した。長者の子も重い疱瘡を病んだ。そこに、何処からともなく僧が現れた。瑠璃の壺から取り出した薬を子に含ませ、この五体をさすると病が癒えた。僧は子が遊んでいた銭輪を貰い受け、首にかけて退出され忽然と消えられた。長者は薬師のご利益と気づき尊像にお参りすると、御首に銭をかけられ、お身体に疱瘡の痕が残っていた。長者は我が子の身代わりになられた尊像をますます崇拝された。
さらに時は経ち、天文十八年の戦い(戦国時代、西暦一五四九年に、あった、織田信秀と今川・松平の安祥城を巡る戦い)により寺は焼かれ長者の子孫も絶えてしまわれた。
元和二年(西暦一六一六年、戦国時代初)四月、村人たちが豊阿弥長者らの墓をこの地に移そうとした際に、土中から、御首に銭をかけられた尊像を掘り出した。不思議な御縁を感じた村人たちは心を合わせ、御堂を造営した。このように記されています。
なお、薬王寺本堂は古墳時代前方後円墳宇頭大塚古墳の後円部に造られています。今は後円部以外削られ、原型を留めていません。昭和三十四年、岡崎文化財研究会の調査によると、その規模は周濠も含めた、全長七〇メートル、後円部径三〇メートルと推定されています。
和銅年間にこの地に住まわれた豊阿弥長者は五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)、別名気入彦命(きいりひこのみこと)の子孫と伝えられています。古墳時代中期(五世紀)にこの地に勢力のあった皇孫の古代豪族の子孫が、奈良時代、和志王山薬王寺を建立されたと考えられます。古い歴史を持つ宇頭町の人々が先祖代々崇敬しお守りしてきた町が誇れる文化財、それが薬王寺宇頭大塚古墳です。 」

'
ご本尊の薬師瑠璃光如来がいかにも霊験 新たかそうな名前の池から現れたり、その尊像が僧の姿で疱瘡の子を救い、子どもが遊んでいた銭輪を首に掛けて姿を消し、尊像の首に銭輪がかかっていて、体に疱瘡の痕があった。

私の好物の話です。


熊野神社 踏分の森】

12:15 安城市に入りました。
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12:17 松並木のある分岐
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12:29 熊野神社
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ここに鎌倉街道が通っていたそうです。

鎌倉街道(熊野神社にある案内板)

鎌倉街道

一一九二年(建久三年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅六十三ヵ所が設置された。
尾崎町では里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったので、この神社の森を踏分(ふみわけ)の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市の新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。
この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する“目印の松”が残されている。

昭和五十四年十月一日
安城市教育委員会


【いつでも「営業中」の一里塚】

12:29 尾崎一里塚跡
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この一里塚について、安城市のホームページとか、観光協会のような公の記事があるといいなあ、と、ネット検索しましたが、特に何もありませんでした。

こういう検索はしょっちゅうやるのですが、面白いのは、寺だと開門閉門時間が決まっていることが多く、営業中、または営業時間外、という表示が出ます。

そして、一里塚跡はお寺の中にある、などという特殊なことがない限り、大抵道端にあるものなので、夜中であろうが、年末年始であろうが、営業中、と書かれている。

お茶を出してくれるわけでも、お土産を買えるわけでもないのに、営業中。つまり、何時行っても見ることが出来る、ということなのですが。

何か、いつでも「営業中」を見る度面白い。


【雲竜の松】

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12:44 永安寺

ここの境内の松が素晴らしい!
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雲竜の松と呼ばれています。

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案内板
「 県指定天然記念物 永安寺の雲竜の松

永安寺は曹洞宗の寺院で、山号を本燃山といいます。
浜茶屋村の庄屋であった、柴田助太夫は、街道の宿場駅へ必要に応じて人馬を提供する助郷役を村が命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たと伝えられます。領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後村の助郷役は免除となりました。村では、領主の代替わりごとに、この助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。
村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺として整えられ、彼の法名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、『本燃山永安寺』と名づけられました。
一般的にマツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びています。この樹形が雲を得てまさに天に昇ろうとする龍を連想させることから『雲竜の松』と呼ばれています。樹齢から、このマツは助太夫の頃からのものと考えられています。

安城市教育委員会

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この写真、竜みたい!

今まで載せた三枚の松の写真は表門側から見た写真。

この写真は本堂側から見た写真。
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【日本のデンマーク

12:52 明治用水
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明治用水 wikipediaより

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明治用水(めいじようすい)は、西三河地方南西部に農業用、工業用の水を供給する用水である。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。

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私は安城市が日本のデンマークと呼ばれるのは、デンマークに匹敵する豊かな農業地帯 だからだと思っていましたが、もちろんそれも重要ですが、それだけではないことを今回知りました。

安城歴史博物館HPより

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日本丁抹

  大正時代末期から昭和時代初期にかけて、安城を中心とした碧海郡は、「日本丁抹デンマーク)」と呼ばれました。当時世界的な農業国であったデンマークの名が冠せられたのは、単に農業経営が多角的で教育・指導機関が充実し、組合組織が発達していたこと等、農業のあり方が先進的であったことだけではありませんでした。


心豊かに生きる場

碧海郡では農村医療の改善を図るために病院を、また農民の読書に対する要望に応えて農業図書館を設立したり、地域の書店が出版活動に力を入れる等、経済的な豊かさだけではなく、人間として心豊かに生きる場としての「農村」づくりに意欲的に取り組んでいたのです。こうした活動がある程度成果をあげた地域として、当時理想の国、模範とすべき国とされていたデンマークのイメージがこの地に投影されたのではないでしょうか。

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12:52 明治川神社鳥居
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この神社も、明治用水と関わりが深い神社です。

wikipediaより

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明治用水の竣工式と祝賀式の際に神社の創建が決定され、同年12月には水に縁の深い大水上祖神、水分神、高龗神を勧進して神社とした。1884年明治17年)には社号を明治川神社とした。

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12:55 松並木
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今日は松並木が多い日でした。雨の松並木はしっとり、旅情を誘います。


【青麻神社】


13:12 石碑やお地蔵さまなどが雑多に並んでいるというよりは、置いてあるような不思議な場所。
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ここが何なのか、気づくのに少し時間がかかりました。
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http://www.ks0001.com/ 「きままに歩く」というサイトを見たら、2015年4月には、石碑が雑然と多いけれどここはきちんとした 神社の様相。

その「きままに歩く」によると、ここにあるものは、

大正7年(1918)の顕彰碑
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本元奥州青麻神社社標
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青麻神社の扁額
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青麻神社鳥居も、前の前の写真に右足、前の写真に左足が写っています。

清見潟又市碑
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濱碇の化粧回しを付けた清見潟又市像
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東京大角力協会清見潟代理目代正濱碇又市碑
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上記「気ままに歩く」の管理人さんがここを訪れた2015年4月にはもう少し神社らしかったのに、なんでこんなに荒れ果ててしまったんでしょう?

10年前に私が来た時、既に青麻神社の扁額は今の写真のように上が欠けて、下に置いてありましたが、でも、全体的には神社らしかったと思います。


清見潟又市と濱碇又七】

東京大角力協会清見潟代理目代正濱碇又市碑
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濱碇の化粧回しを付けた清見潟又市像
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清見潟又市碑
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さて、これらの碑の名前は、あくまで「気ままに歩く」の管理人さんが書いたもので、正確かどうかは検証が必要です。

まず、 東京大角力協会清見潟代理目代正濱碇又市碑とありますが、濱碇の後の二文字、よく読めません。もしかしたら、濱碇又七かもしれない。

この地方出身の濱碇又七という相撲取りが、五代目清見潟に弟子入りし、膝を痛めて廃業して薬売りになってからも、角力協会の目代(正式な代理)として、この地方での相撲興業に貢献した、という事実があるのです。

それについてはこの後に書きますが、そうだとすれば、

東京大角力協会清見潟代理目代正濱碇又市碑ではなく、

東京大角力協会清見潟代理目代正濱碇又七碑

であり、力士の像は、

濱碇の化粧回しを付けた清見潟又市像ではなく、

濱碇の像

なのではないでしょうか?


清見潟又市と濱碇又七の記録】

この地方一の力士の中の出世頭である清見潟又市碑がここにあるために、力士の像も清見潟と思われていますが、清見潟が弟子の回しをしているのはおかしくはないでしょうか。

清見潟又市
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碧南市HPより

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今でも壁海郡出身力士の最高位に輝く毘沙門天の生まれ変わり

清見潟又市(きよみがたまたいち)
(1838〜1900)

相撲取りの5代目清見潟又市は、天保9年(1838)、三河国碧南群前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれた。

(中略)

地元棚尾の玉伝の親分の元で土地相撲に参加し、三代目清見潟の弟子の目にとまった。安政5年(1858)、20歳のとき三代目のもと、江戸相撲に入門した。安政7年(1860)2月、22歳で「江戸」頭書、関谷川幸吉の名で序の口につき、初めて番付にのった。当時としては年齢が高い方だった。
(中略)
元治3年(1866)、11月に幕下二段目に上がった。

この間、師匠の三代目は隠居して、兄弟子三代ノ松が四代目を継承。彼もその門下となった。
新幕下の場所の5日目に、志貴ノ海幸吉と改名した。これは郷里の志貴毘沙門天(妙福寺)から名づけられたもので、毘沙門天のように強くなりたいという願いが込められている。

(中略)

明治2年(1869)12月、四代目の清見潟が死去した。ここで部屋の継承争いが起こったのである。当時、有資格者は十両の深柳鉄蔵と幕下三枚目となった志貴ノ海幸吉の二人であった。

(中略 二人の候補者の、後援者の経済力と人柄と人望で)

明治3年(1869)11月には 、志貴ノ海幸吉は正式に、五代目清見潟又市に改名した。
明治6年(1873)、35歳で又市は新入幕を果たした。
長身のがっしりした筋肉質の骨太の体格で、突き落としが得意で、立合いに大声を発した名物力士だった。
明治15年(1882)5月、44歳で前頭筆頭に躍進したが、これが5代目清見潟又市の最高位であった。
この前頭筆頭という番付は、六代続いた清見潟の中でも、また、碧南郡出身の大相撲力士の中でも、最高位にあたった。(現在でも、碧南郡出身力士の中では最高位)
成績の上では平均的な幕の内力士であったが、驚異の持久力で土俵を湧かせた。
47歳になった明治18年(1885)5月限りで引退した。幕内在位は13年間(計29場所)の長きにわたった。

引退後は凍傷角力協会の役員についたり、多くの弟子を集めて部屋を繁盛させ、さらに、郷土三河近辺の土地相撲の組織を大きく育成した。

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力士 濱碇

一宮市HPより

 しだれ桜で有名な長誓寺(愛知県一宮市)の参道入り口に「東京力士霊魂之碑」があり「濱碇」(はまいかり)の化粧回しをしたお相撲さんがいます。
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明治時代、浅井万金膏【黒い温めて使う膏薬(こうやく)・効能は打撲、捻挫(ねんざ)等】で有名な浅井森医院の七代目森林平(もりりんぺい)氏は、大の相撲好きでお相撲さんには無料で治療しました。その中で濱碇(はまいかり)というお相撲さんが、廃業後、森氏の後押しを受けて薬の行商をはじめ、三河地区の浅井万金膏の独占販売権を得たそうです。慰霊碑は、治療に来ていて不幸にも亡くなった力士を慰めるために、濱碇(はまいかり)さんが建てられました。 


山口旭薬局HPより
 
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「ハマイカリ」は相撲取りの四股名に由来する。
東京相撲力士 濱碇又七が明治16年限りで相撲を廃業し、明治18年にくすりの行商をはじめたことによる。
写真のように化粧回しをつけて、大銀杏を結って立っている石像が残っています。(ここに貼られていた写真は、青麻神社の、濱碇の化粧回しを着けた力士像です。)
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当時は人一倍体が大きくて、飯を沢山食うのは奉公人や丁稚にはなれなくて、「口減らし」でタコ部屋に入れられるとか相撲取りになるとかが自然なのでありました。相撲取りになっておればとりあえず、飯だけは食っていけました。
 愛知県の知多半島とか三河地方の海岸沿いは港町が多く特産の酒を江戸に運び出す海運の中心地でありました。当然のことですが荷の積み下ろしで荒くれ男が沢山いて、その関係で草相撲が大変盛んな地方でありました。


その1
元治元年、父と兄>に死別して一家離散になり、慶応3年ごろより草相撲の仲間に入っていった。「濱碇」の四股名はこの草相撲のときに因むものです。草相撲時代の成績は記録が残っていないのでわからないが後に大相撲に入ったことを考えると実力はまさに勝れていたと思われる。


その2
勧める人があって明治11年に現在の碧南市出身の東京相撲5代目清見潟に入門する。明治12年に初土俵・明治14年には三段目に昇進する。この年、茨城県の土浦で巡業中に膝を負傷し、これが元でやがて明治16年に廃業の悲運を迎えるのである。
怪我をした、濱碇はこの地方で有名な尾張の国の森医院の治療を受けた。この森氏は先祖が戦国時代に活躍した森欄丸の兄弟の家系に連なる尾張地方随一の大地主で代々外科の医師を家業としていた。先祖が鶴に教えてもらったという「浅井膏薬」で外科の治療を良くし名医の誉れ遠近に聞こえ治療を乞う者引きも知らず人力車が列を成すありさまでありました。
当時の7代目森林平院長は相撲取りが大好きで力士からは治療費を一文も取らず、帰りの旅費まで与えて優遇したといいます。
濱碇は居 ること3年にして怪我は治ったが力士としての再起は望めず、森院長の勧めにより心機一転、商売の道に入り、薬の行商をはじめることになったのは明治18年のことでした。

爾来、奮闘努力して、一代にして産を成すに至った。


その3
この相撲取りは、大相撲を廃業後も大相撲協会目代(大相撲協会代理人)として活躍した。
村々でお祭りの余興に相撲が決まると早速、濱碇のところへ頼みに来た。濱碇は金額に応じて各地の相撲取り・行司を集め相撲興行をして見せた。また、大相撲の地方巡業ともなれば世話役として先にたって奔走周旋するのが常であった。
相撲の興行はうまみのある商売で大相撲協会の関取・親方衆は「濱碇さん。祝儀だ」といって祝儀を持ってきて相撲を取って見せて帰って行ったということだ。
自分も出かけるときは必ず祝儀を持っていって置いて来たといいます。ほんとに、義理と人情の世界のようですね。

その4
濱碇は相撲の興行とくすりの行商の2枚鑑札で一代で使い切れぬほどの財を成したといいます。
この相撲取りの偉いところは明治30年ごろから地蔵さんや、恩になった人の碑や顕彰碑などを建てはじめたことである。石碑・灯篭にはどれも発起人・寄付人の名前が彫ってあるが名前を借りただけで、すべて濱碇が個人で負担をしたものであります。
また、くすりの行商で三河の国数十ヶ村を回っていて、村々から頼まれて辻にもお地蔵さんを寄付をして建てたといいます。現在でも、濱碇が建てたといわれる地蔵が安城市内を中心に残っていて中日新聞の全国版の地蔵さんシリーズの記事で紹介をされています。
この新聞の記事が好評なので中日新聞社社会部編「お地蔵さん見つけた」という単行本が出版されました。この本のP138に「ハマイカリ地蔵」として紹介されています。


その5
安城出身で活躍した相撲取りいうことで安城市教育委員会発行の「安城歴史研究」第6集 (1980年出版)で詳しく調べてくれています。今回の記事の出典はこの本によりますが、私がおばあさんから聞いている話を一部付け加えさせていただきました。

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この話からすると、確かに清見潟は郷土の誉れではあるけれど、力士像は濱碇ではないか、と思うのです。

ただ、写真の清見潟と、濱碇の回しを着けた力士は似ている気もします。
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東海道松並木幻想】

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13:27 松並木
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今日は松並木が多かったので、東海道松並木幻想とでもいいましょうか。イメージ図を描きました。

と言っても、白須賀の「おんやど白須賀」の奥の展示室で見た東海道ジオラマとでもいうのでしょうか。東海道を往来する人びとの人形展示をモデルにしています。

白須賀の場合は、松並木の奥に海が見えていましたが、ここでは草原だか畑だか、うやむやに描いています。どこと特定せずに、東海道松並木幻想として描きました。

いつものように、絵の中に私もいます。

弥次喜多もいます。

松の絵が描いてある橋もありました。
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2度目の東海道15日目の5(知立宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/26/174634