2度目の東海道15日目の3
5月28日(火)の3
【岡崎信用金庫資料館】
8:55 岡崎信用金庫資料館
岡崎信用金庫資料館は、免震化工事のため、2019年4月25日から2020年冬頃まで閉鎖中でした。
10年前は見学しました。
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伝馬町一丁目交差点で左に曲がり、すぐ次で右に曲がって少し行くと、右に立派な古い洋館。
岡崎信用金庫資料館(絵手紙)で、カッコ書きで旧商工会議所とありました。
見学無料とのことで、入ってみると、1階で水彩画展をやっていて、二階でお金に関する展示をしていました。
他に誰かいたら、壱万円札の福沢さんの顔をくりぬいた、顔出しパネルで記念撮影のシャッターを押してもらったんだけどな。二階には他に誰もいませんでした。
岡崎信用金庫資料館が面している通りは総門通り。少し先まで行くと、右に松葉総門跡がありました。
そこを右に曲がって、籠田公園の中を左斜め方向に突っ切って、左折。そこは連尺通り。
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この真ん前にあるはずの、御馳走屋敷跡も見逃しました。
【籠田公園工事中】
9:09 籠田公園の横
旧東海道は籠田公園を突っ切っていくのですが、今は残念ながら籠田公園は工事中で立ち入り禁止でした。
この工事の影響で、いくつかの二十七曲りの道標を見ることが出来なかったと思います。
この新しいオレンジ色の道標ができる前からある、先達が「分かりにくくて迷う」と書いてある石の道標を時々見かけました。
9:14 岡崎城対面所前角道標
対面所とは wikipediaより
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対面所(たいめんじょ)とは、室町時代以後の武家屋敷内に設置された施設で、主従関係にある者との対面儀礼の際に用いられた。
対面儀礼は主従関係の成立・確認の際に行われ、武家にとっては重要な儀式の1つであったが、武家の棟梁である将軍もその例外ではなかった。鎌倉幕府では侍廊、室町幕府では会所で対面儀礼を行うのが定制になっていたが、足利義政が花の御所を新造したときに会所とは別に対面所を設置したのが最初とされている。
戦国時代から江戸時代にかけて主従関係を基本とした武家間の身分秩序が重要視されると、武家屋敷の中心施設の1つとして重要視された。豊臣秀吉が大坂城の対面所で徳川家康と対面儀礼を行って、その権威を知らせしめたのは著名な例である。
だが、徳川家康が開いた江戸幕府の主要拠点であった江戸城・二条城では、対面所を設置せずに大広間を対面儀礼の施設として用い、以後その他の武家屋敷でも対面所のことを広間もしくは書院と呼称するようになった。
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9:15 材木町口木戸前道標
【桜並木の道】
写真も撮ったのですが、切りがないから載せませんが、「ち」と「り」と「ぬ」の道標を見ました。
(「い」〜「へ」の道標は見ましたが、やはり籠田公園の工事の影響か、「と」は見ませんでした。)
9:24 材木町辺りになるのかな。写真の素敵な家がありました。
伊賀川の柿田橋は渡らず、その手前の細い道を左に入ります。
9:25 材木町より下肴町の道標
その付近の道が。桜並木の素敵な道です。
【味噌田楽と石道標】
さて、次の橋(三清橋)で右折するのが旧東海道ですが、10年前は岡崎城公園に行くために曲がらず真っ直ぐ行きました。
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松葉通りの三清橋で右折するのですが、岡崎城址に行ってみたいので、ちょっと旧東海道から離れました。
岡崎城址のある岡崎公園には、味噌田楽を食べられる店があるそうで、それを目当てに行ったのですが…
岡崎公園に向かうため、川沿いを歩いていましたが、大きな道を渡るのを避けるために、橋の下の水際の道に下りてみました。道はずっと繋がっていて、信号に煩わされずにずっと行けます。
岡崎城址の公園は広く、私が行きたかった店の場所が分からなかったため、違う茶店に入りました。本当は菜めし田楽が食べたかったのですが、この茶店には白いご飯の味噌田楽定食しかありませんでした。でも、味噌田楽はとても美味しかった。
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さて、今回は岡崎城公園には行かなかったので、三清橋を渡ります。
9:28 三清橋の袂の石道標。「下肴町より田町角」
橋に桜が描いてあるので、岡崎市の花かと思ったら、岡崎市の花は「ふじ」だそうです。岡崎公園が桜の名所だからかな。
三清橋を渡ったところで工事をしていて、ほんの少し遠回り。
そのために左へ曲がる角が分からなくなるんじゃないかと不安で、迂回してから少し戻ったら、写真の矢印がありました。
その横の建物が真新しいので、そこにあったはずの「田町北角」の石道標がなくなった代わりにこの矢印を設置しているのかな。
【田町から板屋町】
先ほどの矢印から5分ほどで、大きな道に出ました。
9:36 「田町角」
大きな道を右に折れて、少し行くと、歩道橋が見えてきて、この歩道橋を渡らねばならないようです。
この辺り、かなりの雨でした。
渡ったら南に進むのですが、ガイド本には道標の印がなく、不安だったのですが、
9:43 「板屋町入り口」石標がありました。
板屋町に入ります。
【板屋町角】
この道で本当に大丈夫?と不安になる頃、板屋稲荷神社があり、この道で大丈夫なことがわかりました。(9:47)
そして、板屋町角石は、中小企業の事業所の駐車場にありました。
大雨だったので、室内で仕事している人達がうらやましい。
9:51 「た」道標 「これより八帖町町角」
八帖町 wikipediaより
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八帖町(はっちょうちょう)は、愛知県岡崎市の町名。丁番を持たない単独町名であり、6つの小字を持つ。
八丁味噌を生産する2社(カクキューとまるや八丁味噌)が立地する。
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【カクキュー見学】
10年前も味噌蔵見学はしたので、パスのつもりでしたが、あまりにも大雨で、雨宿りと休憩も兼ねて、カクキューに味噌蔵見学に行きました。
八帖町には、カクキューとまるやがあり、10年前はカクキューの見学をしたので、今回はまるやに行けばよかったんでしょうが、半分雨宿りなので、前にも行った場所がよいのではないかと。
カクキュー前に着いたのは9:59
(2枚の写真は、カクキューの表の顔です。)
トイレに寄ってから受付に行ったら、もう10:00からの見学ツアーが始まっていたらしいのですが、滑り込みで入れてもらえました。ここで30分待ちはきつかったので、よかった。
写真は資料館に展示されてている昔のカクキューの看板で、矢作橋での、少年日吉丸(後の豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いの絵です。
日吉丸が橋に寝ていたときにかけていた筵(むしろ)にカクキューのマークが入っていたからだそうです。
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八丁味噌(はっちょうみそ)とは、愛知県岡崎市八帖町で生産されている長期熟成させた豆味噌。
特徴
米麹や麦麹を用いず、原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆味噌のうち、現在の愛知県岡崎市八帖町にて生産されてきたものを指す。
名古屋圏では「味噌汁」といえば豆味噌を用いた赤い汁のものが一般的であり、八丁味噌も他の豆味噌同様、濃い赤褐色をしているのが特徴である。
水で洗った大豆を浸漬し、水を切り蒸し冷ましミンチにして味噌玉に丸めて種麹をまぶして室で4日かけ豆麹を作り、味噌麹に白塩と水を加えて木製(6尺)の大桶に空気を抜きながら味噌を敷き詰め、その上から石積みして[7]、長期間(1年半から2年以上)天然醸造される。腐敗を防ぐために塩分濃度を高めているため、独特の渋みとうまみが特徴である。全国的には豆味噌(赤だし)というと塩辛いイメージがあるが、八丁味噌は塩分が少ない。
2社ある製造業者の一つ、まるや八丁味噌の場合、直径・高さとも2メートル程度の桶200本(カクキューは約5倍)にそれぞれ約6トンの味噌を仕込み、麻布(カクキューは木蓋)をかぶせた上から合計約3トンの石を手積みする。大きさや形が異なる大小様々な石(外約60kg、内11kg、頂点9㎏)を加重が均一になるよう組み合わせ、「二夏二冬」熟成させる。一番上の「まんじゅう石」が重要と言われる。
由来
現在の岡崎市八帖町はかつて「八丁村」といった。これは岡崎城より西へ八町(約800m)離れていたことに由来する。この八丁村は矢作川の伏流水による湧き水が豊富で、かつ東海道の水陸交通の要地であった。すぐそばに矢作橋が架設されており、舟運(八丁土場と呼ばれた)も同時に恵まれていた。そこで、兵食として重要視されてきた味噌を、軍需物資の兵站基地として形成された八丁村で製造することに着目した早川久右衛門家(現・カクキュー)と大田弥治右衛門家(現・まるや八丁味噌)が当地で味噌醸造を創業した。すなわち「八丁味噌」の始まりである。
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【10年前の見学】
10年前の見学
10年前のブログ
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愛知環状線の中岡崎の駅の近く、線路の高架下をくぐって、すぐの交差点に八丁味噌史料館の看板が出ていました。
看板の案内通りに進んで見学の受付をしました。
それがちょうど15時ぐらいで、ぎりぎり15時からの見学に間に合いました。タッチの差で次に回されそうだったのですが、なんとか30分も待たずにすみました。
八丁味噌史料館の見学は素晴らしかった。大きな樽をたくさん見ました。(絵手紙)
たくさん書きたいことがあった見学でしたが、ここは是非、東海道ウォーカーの皆さんに立ち寄って見学していただきたい場所なので、あえて詳しいことは書きません。
14日間で東海道を歩いた長男は、お金や時間がもったいないから、ほとんど寄り道をせずにひたすら歩いたのですが、見学無料ということもあり、八丁味噌史料館は行ったそうで、長男も「ここは是非行った方がいい」と言っていました。
何年か前のNHK朝連「純情きらり」のロケ地でもあり、美山加恋ちゃんの写真が可愛かった!
見学の最後に、八丁味噌の味噌汁、赤だしの味噌汁の試飲、味噌こんにゃくの試食がありました。他のみんなは、赤だしの方が飲みやすいと言っていましたが、私は今は亡き伯父の影響で八丁味噌の味噌汁が好きなので、八丁味噌の方が美味しいと思いました。
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絵手紙は10年前のブログ用に描いたもの。
写真は今回撮った写真です。
【今回の見学】
10年前はそれは言われなかったなあ、と思ったのは、NHKの「純情きらり」関係のものは撮影NGだということを、最初に言われました。
資料館に展示されている働く職人さんの人形は、実際に働いていた職人さんたちをモデルに作られていて、なかなかよく似ているそうです。
味噌蔵では、麹菌が漂っているので、ここに見学に来ただけで、とても体によいそうです。
こんな雨の日に、味噌蔵に人が大勢出入りしていいのかなあ、と心配になってしまいますか、どうなんでしょう。
でも、見学者が全員外に出たら、厳重に閉めていました。
見学の最後は、10年前と同じく、赤だのしの味噌汁と、八丁味噌の味噌汁と、味噌田楽を試食しました。
最後に受付に名前を書いて出すと、お土産用のほんのちょっぴりの八丁味噌をいただきました。(10年前にもいただきましたが、量がもっと多かった。)
見学を終えて外に出たら、まだ雨は降っていましたが、たまらず雨宿りに走った先程よりはましになっていました。
【八丁蔵通りとまるや八丁味噌】
八丁蔵通りの絵手紙は、10年前のブログ用に描いたものです。
10:46 「まるや八丁味噌」
素敵な店構えですね。次回は(果たして次回があるかどうかわかりませんが)是非、まるやを見学したいなあ。
10:47 八丁蔵通り
別れがたい感じですが、先を急ぎましょう。
10:58 矢作(やはぎ)橋を渡ります。
橋を渡って、今は道の左側を歩いているので、旧東海道は右に折れるし、蜂須賀小六と日吉丸の出会いの像を見るにも、右側へ行きたいのですが、大分行きすぎてから右へ渡ったので、出会いの像を見るために、わざわざ戻りました。
11:02 小六と日吉丸出会いの像
10年前とは、像の位置が違うような気がしました。
そういえば思い出したのですが、10年前は矢作橋が工事中で、出会いの像を見ることが出来なかった、とブログに書いている人がいて、見ることが出来ないのかなあ、と思っていたら、ガイド本に載っている地図とは違う位置に出会いの像があって、見られてよかった、と思ったのだった。
工事が終わって、正式な位置に戻ったのかな?
蜂須賀小六と日吉丸出会いの像
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日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、八歳の時に奉公に出され、12歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。しかし実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は幼少時代どころか既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされている。
1988年(昭和63年)12月、市内の電気機器メーカーの経営者が「岡崎市の西の入口を飾るモニュメントとして建て、街づくりに役立ててほしい」と市に寄付を申し出て、約1年がかりで「出合之像」は製作された。岡崎産のみかげ石づくりで、矢作橋の西詰め北側に建立された。
掛け替え工事のため、2006年(平成18年)2月から一時的に「出合之像」は撤去されたが、架け替え及び旧橋撤去の工事終了後の2014年(平成26年)1月に元の場所に戻された。
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ここには、工事中は出会いの像は一時的に撤去されていた、 とありますが、私は少し違う位置で見ることが出来たので、その一時的撤去の時期と外れていたのか、撤去ではなく近くに移動してあったのを運よく見たのか。
出会いの像の左隣に、写真3の、「明治天皇御駐蹕之所」碑と、昔の矢作橋の橋の袂の柱(壁?)がありました。
御駐蹕とは?
デジタル大辞典より
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ちゅう‐ひつ【駐×蹕】
天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。
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2度目の東海道15日目の4(知立宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/26/081052