2度目の東海道15日目の5
5月28日(火)の5
【来迎寺公園】
13:37 来迎寺公園
公園に入って、小高い丘を左から回り込んでいくと、すぐに玉乃井と言われる井戸跡があります。
丘を回り込んで自分の軌跡をUの字に例えると、その終点辺りに、錦旗千載駐饒光(きんきせんざいよこうにちゅうす)碑
がありました。これは、 陸海軍大演習が明治天皇観閲のもとに行われたことを記念して建てられたそうです。
【来迎寺一里塚跡】
13:47 来迎寺一里塚跡
案内板
「 来迎寺一里塚
県指定文化財(史跡)
昭和三十六年七月八日指定
一六〇三年(慶長八年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要からの諸国街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道、東山道、北陸道など主要街道を修理させた。この時、一里(約4キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一。山などと称した。
こうした一里塚は通行者の便宜上、脇街道にも造られるようになった。
塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々松といわれる。この大きさは直径約十一メートル、高さ約三メートルに土を盛り、街道の両脇に造られている。
この塚のように両塚とも完全に残されているのは、大変珍しい。
県下では他に、豊明市の阿野一里塚などがある。
南塚。進行方向左側。
北塚。進行方向左側。
通りすぎてから、左右両塚を写すために振り返った写真
この写真でいうと、左側が北塚、右側が南塚です。
【知立松並木プロムナード】
14:02 新田北交差点の歩道橋を渡ります。
歩道橋から右向こうにローソンが見えたので、トイレを借りて、大きなツインシュー(カスタードクリームと生クリームが入ったシュークリーム)で休憩。
14:16 松並木
14:18 小林一茶句碑
「はつ雪やちりふの市の銭叺(ぜにかます)」
精選版日本国語大辞典の解説
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ぜに‐かます【銭叺】
〘名〙 (「ぜにがます」とも) 銭を入れるのに用いるわらむしろの袋。
※俳諧・七番日記‐文化一〇年(1813)一一月「はつ雪やちりふの市の銭叺」
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知立松並木遊歩道には、知立にちなんだ彫刻が何点か展示されています。
早川高師作「ようこそ、ようこそ」
2015年制作 ブロンズ
おみやげをもった猫が、池鯉鮒にやってきて、鯉や鮒、池鯉鮒の人々に「ようこそ、ようこそ」と歓迎される様子をおとぎ話風に制作したものだそうです。
この作品の下に、知立の案内板があります。
池鯉鮒
案内板(石碑)
「 昔、ちりゅうは、知立、智立などと書かれていました。東海道が整備されて五十三次の宿場ができ、知立は品川から数えて三十九番目の宿場となり、『池鯉鮒』と書くようになりました。
知立神社にはお祭りの際に神輿を洗う御手洗池と呼ばれる池があり、池には鯉や鮒がたくさんいたので、『池鯉鮒』となったとも伝えられています。
隔年5月3日の知立まつりで上演される山車文楽とからくりは全国的に有名で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
野外彫刻プロムナード展15周年記念事業
野外彫刻プロムナード展振興運営委員会」
【万葉の歌碑と馬市の碑】
14:23 馬市句碑・万葉の歌碑
案内板
「 馬市句碑
かきつばた名に八ツ橋のなつかしく
蝶つばめ馬市たてしあととめて
万葉の歌碑
引馬野に
にほふはりはら
いりみだれ
衣にほはせ たびのしるしに
この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と言われてる。 」
これは万葉の歌碑
こちらの碑は、「池鯉鮒宿 馬市の碑」
句碑はどこ?
馬市の碑をよく見ると、薄く何か書いてあるようにも見えます。この馬市の碑に麦人の俳句が書いてあるのか、句碑はここにはないのか?
暗渠になった「明治用水」が松並木の左側の緑道となっているそうです。
【八橋のかきつばたと首夏馬市】
manapediaより
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はじめに
このテキストでは、伊勢物語の9段『東下り』そして『古今和歌集』に収録されている歌「唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」の現代語訳・口語訳と解説をしています。
原文
唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
ひらがなでの読み方
からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
現代語訳
(何度も着て身になじんだ)唐衣のように、(長年なれ親しんだ)妻が(都に)いるので、(その妻を残したまま)はるばる来てしまった旅(のわびしさ)を、しみじみと思うことです。
解説
この歌の作者は在原業平です。古今和歌集の詞書によると、この歌は都から東国へ旅をしたときに寄った、三河の八橋という所で詠まれた歌とされています。八橋を流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いていたのを見て、かきつばたという5文字を和歌の(5・7・5・7・7の)各句の頭文字に置いて旅の気持ちを詠んだ歌です。この歌の各句の頭文字を取ると「かきつはた」となります。
「か」ら衣 「き」つつなれにし「 つ」ましあれば 「は」るばる来ぬる 「た」びをしぞ思ふ
このような歌の技法を折り句といいます。
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この歌も技法を折り込みながら美しい情感を歌っていますが、伊勢物語ではこの歌を聞いたとき、はるばるやって来た旅路、都に置いてきた妻や子のことを思い、みな涙した、というところが素晴らしいと、高校生の時初めて詠んだときも、そして今も、じいんと来てしまいます。
というわけで、10年前のブログ用に描いたのがここにこちらの絵手紙。
こちらは広重の「池鯉鮒宿 首夏馬市」の絵の看板。
広重の絵の説明板
「 保永堂版『 東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』歌川広重 天保三~4年(1832~1833)頃
歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。鎌倉時代の初期に書かれた『海道記』に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。また、江戸時代の浅井了意の『東海道名所記』、梅月堂宣阿『富士一覧記』、井原西鶴『一目玉鉾』、秋里籬島『東海道名所図会』等にに馬市の盛大な様子が述べられている。これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。馬を売買する人はもよよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。
広重の絵の題が「池鯉鮒 首夏馬市」ですが、 「首夏」とは、初夏の頃。旧暦で4月の異名です。
この絵看板では分かりにくいので、広重の絵も載せておきます。
【御林地下道とサン・マリ大聖堂】
14:26 御林地下道
この地下道を通って国道1号線の左側に渡ります。
地下道入り口から見える、あの教会みたいなものは何?
サン・マリ大聖堂というらしい。
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サン・マリ大聖堂
サン・マリ大聖堂」南仏マルセイユのセント・マリー教会のアンティークステンドグラスを移設。L・C・ティファニーのオパールガラスをふんだんに使った芸術性の高い空間。パイプオルガンと讃美歌が大理石に反響し深い感銘を与える。
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結婚式場(冠婚葬祭やるみたいです)のIZUMODENグループのひとつだったみたいなのですが、結婚式の受付は終了したそうで、では、今はあの建物はなんに使われているのか?
地下道を潜って反対まで着たところに、「東海道 池鯉鮒宿」の道標がありました。
写真2の左側の細い道を入っていきます。
もう一度サン・マリ大聖堂を振り返ります。
【知立中心部へ向かう】
14:32 踏切
14:39 常夜燈
14:43
写真は、右に分岐した先の狭い道です。
この分岐の先から、知立宿の中心部に入って行きます。
14:50 祭屋台(山車)の蔵
江戸時代前期の様子を伝える屏風に描かれた御殿と知立神社
知立古城は桶狭間の戦い で落城し、江戸時代の初めには将軍の休泊用の御殿となっていた。 」
愛知県公式観光ガイドより
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知立神社の神官永見氏の居城で、桶狭間合戦後に落城しました。のち、刈谷城主水野忠重が、この土地にお屋敷を建てました。江戸時代はじめは、将軍上洛用の旅舎として使われましたが、元禄期の地震で倒壊したのちは、再建されませんでした。
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現在の 西町児童遊園内です。
14:52 曲がり角にあったこんにゃく屋
シャッターではなく木の戸が素敵ですね。
ここを左に曲がりますが、この曲がり角に、了運寺があります。
【了運寺】
15:52 了運寺
絵手紙は10年前のブログ用に描いたもの。
この写真が了運寺です。
知立市観光・旅行見所ナビより
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了運寺(知立市)概要: 了運寺の創建は不詳ですが知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊(平安時代に天台宗の高僧である慈覚大師が知立神社の別当寺院として開山した寺院。)として開かれたのが始まりと伝えられています。当初は天台宗でしたが明応2年(1493)、浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し現在の寺号である了運寺に改めています。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により同じく神宮寺七坊の1つ総持寺が廃寺になる多くの仏像が了運寺に移されています(大正時代に総持寺が再興されると戻されています)。寺宝である法然上人御絵伝は昭和40年(1965)に知立市指定文化財に指定されています。山門は入母屋、桟瓦葺、一間一戸、四脚鐘楼門(上層部が鐘撞堂の山門)。本堂は寄棟、桟瓦葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。知立三弘法第二番札所(札所本尊:弘法大師)。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。
こちらの建物は、 了運寺の一部で、山門の左側にある、知立三弘法第二番札所(札所本尊:弘法大師)
14:53 写真の看板を見つけ、その大イチョウはどこに?
と、看板の後呂の自転車置き場の奥の方に見える大きな木を見に行ったら、確かにイチョウです。回りに他にこんな大きな木はないので、これが、総持寺跡の大イチョウなんでしょう。
市指定文化財(天然記念物)
昭和四十年一月一日指定
イチョウ科の落葉喬木。雌雄異株。このイチョウは雌木で、秋には多くのギンナンが採れる。イチョウの木は病虫害が少なく、火にも強いため神社・寺院に植えられて巨木になって残る例が多いが、この木もその一つである。樹齢二百余年を経た今も樹勢未だ衰えていない。
元和二年(一六一六)ここに玉泉坊を創建、貞享三年(一六八六)総持寺と改称。明治五年(一八七二)廃寺となり境内は民間の手に移った。総持寺はその後大正十五年(一九二六)に西町心肝に再建され、現在に至っている。
14:55 知立1号地下道をくぐる。
【逢妻橋(旧池鯉鮒大橋)】
15:02 逢妻川の逢妻橋を渡ります。
旧池鯉鮒大橋だそうです。
2度目の東海道15日目の6(刈谷市、豊明市)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/26/183040