紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

箱根板橋から三枚橋まで

2度目の東海道4日目の1

2019年4月1日(月)の1


箱根板橋からの再出発】

本日は東海道五十三次歩き四日目。

3月24日(3日目)の終点、箱根板橋から歩き始めます。

朝、8:38 箱根板橋駅に着きました。

8:38 箱根板橋駅
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五十三次歩き的には本日のスタート地点、板橋見附交差点着が8:45

板橋見附交差点(光円寺)
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このすぐ先にトイレがあり、10年前にお借りしましたが、そのトイレがすっかり綺麗になっていました。



【内野邸】


8:52 内野邸
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案内板
「この建物は、板橋の地で三代 100年近くにわたって 醤油醸造業を営んでいた内野家の店舗兼住宅として明治36年(1903年)に建てられました。当時流行していた土蔵造り風の町家で、「なまこ壁」や「石造りアーチ」など、和洋折衷的なとくちょうある意匠が取り入れられた機長な歴史的建造物です。」
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【板橋地蔵尊

8:54 板橋地蔵尊
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歩いていると暑くなってきていたので、板橋地蔵尊境内で上着とダウンベストを脱ぎました。
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日蓮聖人御霊跡】

9:00 石仏石塔群(上板橋)
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旧道から国道1号線に出るところに、幾つもの石仏石塔がまとめられています。多分あちこちばらばらにあったものを、工事などで移動する際、ここにまとめたものと思われます。


暫く国道1号線を歩き、右側の踏切を渡って旧道に向かうのですが、踏切を渡った左側右側に日蓮聖人御霊跡があります。
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9:09 日蓮聖人霊跡
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説明板
「文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉からみのぶさんに赴く途中、5月13日、当所を通り、巨星象の鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ遠く房州の諸岳を望んで故郷忘れ難く遥かに亡くなられた両親を偲ばれ回向して冥福を祈られ曼陀羅本尊を書かれ石の宝塔を建て首題釈迦牟尼多宝如来四菩薩を刻し衆生済度の病即消滅を祈願された。
その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。
永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て象鼻山妙福寺と命名下総国葛飾群中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般的里人から礼拝されていた。
おしくも大正二年廃寺となり、同村蓮正寺に合併され現在の同市板橋に移り御塔山生福寺となったおります。

神奈川県皇国地誌残稿より
昭和47年8月13日
日蓮聖人讚仰の有志一同 」
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【萌萌と湘南ゴールド】

9:12 出会ったゴミ収集車の車体に「萌萌」と書いてあり、ファンキーでした。
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9:17 湘南コールドと清見無人売り
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東海道を歩いていると、わりとしょっちゅう無人売りを見かけます。

それから、10年前と比べて、小さなデイサービスの施設が増えたと思います。

松並木のこちら半分枝がないのは、切っちゃったのか、風のせいか?
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【紹太寺の垂れ桜】

9:26 紹太寺入口
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警備員さんが車の誘導と、歩行者には

「ここから山の中腹まで1キロ上ります」

と案内していました。

私が入り口の写真だけ撮って、垂れ桜の方には行かないので、驚いていました。

東海道を歩いているので」

と挨拶しておきました。

実はこの日、思っていたよりたくさん進んだため、翌日4月2日は休養日にして紹太寺の垂れ桜を見に来ました。

(箱根芦ノ湖畔で宿がとれなかったので、バスでの移動を考えて、小田原に2泊したため)

こちらの写真は、4月2日の垂れ桜です。
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【日本初の有料道路など】

駒ノ爪橋跡がある辺り、案内板を見つけられませんでした。

10年前には見たのに、今回見つけられなかったものは結構あります。単にたまたま見つけられなかった場合もありますが、ほとんどが工事などで取り払われてしまったか、移動してしまったか、だと思います。

写真は、10年前に撮った写真です。
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このように書いてあります。

天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。
 これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。
 そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑強な脚にあやかりたい」と道中足が痛まないよう祈願したということです。
 後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです 」

9:33 日本初の有料道路
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このように書いてあります。

「 明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1km幅員平均5メートルの我が国初の有料道路が開通しました。
 江戸時代の東海道を拡げ、2か所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。
 開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。
 この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗り合い馬車も入ってきました。かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立ちました。
                          箱根町

 
9:35 達磨大師
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「まちの情報誌ぽすと」より

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ドライバーの交通安全を見守り続ける、国道1号沿い(箱根町山崎地区)の「だるま碑」が昨年12月、箱根町交通安全都市推進協議会によってきれいに塗り替えられた。
この碑は、この地区に住んでいた日本画家・直井白雲さんによる作品をモチーフとしたもの。高さは台座を含めて約2m。建立から40年以上も経つことから塗装もはがれおち、キリッとしただるまの表情もどこか寂しげにみえていた。そこで、箱根町湯本在住の元町議・倉橋啓さんが「これではいけない」と町に依頼し、塗り直しが行なわれた。力強い朱色が鮮やかによみがえり、引き続き交通安全に睨みを利かせる。

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【山崎古戦場跡と、あのエネオス


先ほどの達磨大師像の先から、写真の、高いところを通る歩道に入ります。
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10年前に来た時は、ほとんどがこの、車道を見下ろす歩道で、場所によっては草がぼうぼうに生えていました。

今回は道路整備がされていて、車道の脇に立派な歩道ができていました。

10年前は国道1号線脇を通ったため、山崎古戦場跡の碑を見ることが出来たのですが、今回はそこを通らないルートになっていただけか、その碑自体がなくなってしまった可能性もあります。

写真は、10年前に撮った写真です。
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山崎の戦いとはどんなものなのか。タウンニュースより

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1868年(慶応4年)、江戸城開城後に旧幕府軍から抜け出した抗戦派の「遊撃隊」は房総半島で勢力を増やしていた。4月には100人以上が館山から海路で真鶴に上陸、その後伊豆や御殿場方面などをまわり、沼津から江戸へと進軍を図った。

 小田原藩は新政府軍に従っており、遊撃隊が領内を通らないように説得したものの失敗。箱根関所で遊撃隊との銃撃戦が勃発した。ところが翌朝、突如小田原藩は和睦を提案し、遊撃隊は小田原城下入りを果たす。小田原城内が佐幕(幕府存続)に転じたのだった。

変わる藩論


しかし、それを知った新政府側は小田原攻めの構えを見せた。江戸から駆け付けた家老も佐幕の無謀さを説いた結果、わずか数日で小田原藩は新政府側に戻った。双方は再び戦火を交える事になり、遊撃隊は山崎の高台(旧湯本中学校近く)に砲台を築き、小田原藩は長興山や石垣山方面から砲撃。その後は三枚橋で白兵戦となり、遊撃隊は湯本の町に放火しながら箱根宿~十国峠~熱海へと敗走した。

 逃げ遅れた隊士は箱根の各地で討ち取られた。宮ノ下の旅館(旧大和屋※現在は廃業)には隊士が逃げ込んだという米びつなどが残された。山崎は古戦場として絵葉書などの題材になった。隊士の位牌が残り、供養を続ける常泉寺(宮ノ下)では今でも子孫が尋ねる事もあるという。

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写真は、私にとって思い出深い「あのエネオス
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10年前、私は箱根板橋から箱根湯本まで2回歩いています。

2008年9月30日、平塚から箱根湯本まで歩いた時は一日雨で、さらに箱根板橋あたりから暗くなってしまい、何も写真も撮れなかったし、どこが旧道やらわからず、一部を除きほとんど国道を歩きました。

それで、2008年10月6日、よく晴れた日に、長女と二人で箱根板橋から箱根湯本まで、歩き直して写真もたくさん撮りました。

今回、「10年前に撮ったもの」という写真の、箱根板橋から箱根湯本までの写真は10月6日版です。

雨の夜の、9月30日のブログはこう書いてあります。

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国道と合流すると、右側に箱根登山鉄道の線路を見ながら行きます。

歩道の舗装が工事ではがされた上に緑のシートが張ってあるのですが、歩きにくい上に水がたまっていて、このままでは靴がグショグジョになって靴下まで染み込んでくると嫌なので、左側に渡りました。

しかし、そのせいで旧道に入らず、ずっと国道沿いを行くことになりますが、もう真っ暗なので、裏道より国道で正解かも。

かまぼこ博物館を右に見て、生命の星地球博物館を左に見て。左を歩いていたら、その先歩道がないので右に渡って暫く行くと、今度は「この先歩道がないので、箱根湯本方面へ歩かれる方は歩道橋で反対側に渡ってお歩きください」とのことで、渡って暫く歩くとまた歩道がなくなって。

旧道を歩いていればこんな目に会わなかったのかな。

山崎あたりでとうとう歩道がなくなり、暫くうろうろした挙げ句、右側に渡ってENEOSのおじさんに「歩いて箱根湯本に行くにはどう行ったらいいですか?」と尋ねたら、ガソリンスタンドのすぐ裏が旧道で、そこを行くように教えてくれました。

真っ暗で怖かったけれど、仕事帰りのスーツ姿のおじさんが、えっちらおっちら坂を自転車で上っているのが視界に入っていたので、助かりました。

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そうなのです。夜の山道で山小屋の灯火に助けられたように、このエネオスに私は助けられました。

今日は若い女の子がガソリンを入れる作業をしていました。


三枚橋

暫く国道1号線の右側を歩いていましたが、歩道橋で左に渡りました。
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9:50 三枚橋交差点
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本日の2【三枚橋から畑宿まで】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/16/110800