紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

箱根再訪番外編2【畑宿一里塚跡から箱根関所】

10月9日(水)の3

2 度目の東海道番外編箱根2(畑宿一里塚跡から箱根関所)


【畑宿の一里塚跡】

10:38 畑宿の一里塚跡
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3枚目の写真の逆光の一里塚跡がとっても綺麗!

さて、箱根東坂後半戦に突入です。


【幻想的な空中の東海道


10:41 畑宿の一里塚跡を出て3分後、すごい急な上り坂の石畳に驚きました。
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前回は何で気づかなかったんだろう?

雨が降り始めて焦りが出たのか、それとも「空中の東海道」ってどんなところだろう?とわくわくしていたからか?

こんな旧な石畳、駕籠とか馬とか、どうやって通ったんだろう?

10:42 空中の東海道
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車道を渡る橋の東海道なので、確かに空中の東海道ですが、ただの橋ではなく、土橋のように土を盛ってあるのか、長い間の風雨で自然に土が積もったのか、草も生えているし、普通の道みたいですよね。

こちらの写真は4月1日に撮った同じ場所、空中の東海道ですが、橋が石畳風になっているなあ、とは思いましたが、今回の方が草が伸びて緑豊かで、幻想的ですね。
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そしてこちらは、空中の東海道から見下ろした車道。
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【西海子坂】

10:47 西海子坂(さいかちざか)
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前回見逃した坂の名の石碑です。次の写真のようなすごい坂。今は階段だからよいけれど、階段が設置されるまでは大変だったでしょうね。
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すぐ横に案内板
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「 十、箱根旧街道

江戸幕府は延宝8年(1680年)、箱根道を石畳道に改修しました。
それ以前のこの道は、雨や雪のあとは大変な悪路となり、旅人はひざまで没する泥道を歩かねばならないため、竹を敷いていましたが毎年、竹を調達するために大変な労力と費用がかかっていました。」


石畳は歩きにくい、なんて言えませんね。膝まで没する泥道だったから竹を敷いていた。それも、毎年竹を調達するのが大変だったって!

石畳のおかげで、どれだけ歩きやすくなったことか。

ここの急階段はすぐに車道に出るため短いので、現代はそこまできつくありません。


【七曲り】

10:49 七曲りの看板
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そして、看板のある場所のヘアピンカーブ
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車道を縫うように設置された歩行者用の階段。
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この階段が旧東海道です。


【どんぐりの涙の橿木坂】

11:01 橿木坂(かしのきざか)
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4月1日のブログに書いた、案内板と、4月1日に橿木坂を上った時の様子を引用します。

4月1日のブログより

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橿木坂案内板

「『新編相模国風土記稿』に、
蛸崖(高く険しい崖)に橿樹あり。故に橿木の名を得、とあります。
東海道名所日記』には、
『険しきこと道中一番の難所なり。
おこと、かくぞ詠みける。
『橿ノ木の
坂をのぼれば
苦しくて
どんぐりほどの
涙こぼる 』
と書かれています。 」

今は写真2のような階段なので、昔よりは歩きやすいのでしょうが、長く長く続くので、途中何回か足を止めて深呼吸しました。

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東海道一の険しい難所で、苦しくてどんぐりほどの涙がこぼれるって、すごいですよね。

東海道を歩いている皆さんのブログを見ても、橿木坂が一番つらかった、という片が多いです。階段が延々と続いて、あそこの踊り場まで行けば終わりかな?と思って行くと、まだ先があります。
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私は学生時代の山登りみたいに、ひとりエールをかけながら、

「ファイ・オー・ファイ・オー・ファイ・オー」

と声を出して上りました。

歌でもダンスそうですが、声を出した方が息が吸えて、息が整うんです。

それでも時々立ち止まっては仕切り直して、「ファイ・オー・ファイ・オー・ファイ・オー・ファイ・オー」を繰り返して上りました。


【見晴橋分岐と雲助】


11:08 見晴橋分岐
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この分岐に来ると、毎回必ず

「あれ?どっちだろう?」

と暫し立ち止まってしまいます。

10年前も、今年の4月1日も、そして今回も。

こちらは拡大したもの。
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右(進行方向で言うと真っ直ぐ)は、車道に出てしまうので、左に折れます。

それでも、本当にこちらでよかったのかな?と不安になっていると、

11:09 「雲助とよばれた人たち」の案内板
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この案内板があれば、道は合っています。

「雲助とよばれた人たち」は毎回紹介していますが、箱根といえば雲助なので、今回も書いておきます。

雲助説明板

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雲助とよばれた人たち
 「箱根の雲助」というと知らない人はいません。ところが雲助とよばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では、人足を登録させ仕事を割当てていましたので、悪さをした人などはいなかったといいます。
 日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなかむずかしく誰でも、すぐなれるとう職業ではなかったようです。
一.力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です。)
二.荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれが造ったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです。)
三.歌をうたうのが上手でないと、一流の雲助とは言われなかったそうです。
こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、駕籠をかつぐ「駕籠かき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
環境省・神奈川県

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10年前のブログより

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旧道には、ところどころ看板が出ていて、豆知識が書かれていました。

その中で勉強になったのが、雲助です。雲助は弥次喜多などで悪い奴、というイメージが作られてしまいましたが、実は小田原の問屋場で雇われた人足で、きちんとした人たちばかりだったのだそうです。雲助になれる条件は厳しく、3つありました。1つめは力が強いこと。2つめは荷造りがうまいこと。ここまでは当たり前ですが、3つめは、ちょっとびっくり。歌がうまいこと、なんだそうです。馬子歌やかごかき歌を歌わねばならなかったから、だそうです。

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【山根橋、甘酒橋】


11:11 山根橋
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写真のような道を歩いていきます。
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11:17 甘酒橋
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名前が甘酒橋なので、もうすぐ甘酒茶屋かと思いきや、甘酒茶屋まではここから28分かかりました。
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【気をつけて渡る】


11:29 気をつけて道を渡るところ

山道の旧道が車道に突き当たり、気をつけて渡らねばならない場所。

車が来ていないので急いで渡ってから振り返ったのが写真。
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向こう側にも「車に気をつけて横断してください」という看板は出ていました。
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横断歩道はあっても、住宅地と違ってこういう場所では車はガンガン飛ばしてきて減速はしてくれません。

上り坂の車はアクセル押しっぱなしだし、下り坂の車は結構スピード出ているし。

命からがら渡ると、写真のような階段を上ります。
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階段を上がりきった辺り。石畳風の歩道になっています。
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【笈ノ平と追込坂】


猿でも滑るぐらいの急な坂、という猿滑坂は見逃してしまいました。


11:34 笈ノ平、追込坂
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笈ノ平のすぐ右隣に追込坂の入口があります。
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案内板や石碑の写真を撮るために近づこうとすると、足にチクチクするものが私を追い払おうとする。

野アザミが咲いていました。花は赤紫できれいだけど、葉っぱのチクチクがなかなか手強いです。
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笈ノ平と追込坂の説明板は、4月1日のブログを引用します。

4月1日のブログより

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追込坂(おいこみざか又はふっこみざか)

甘酒茶屋まで続く緩い坂道。

すぐ横に、親鸞上人と笈ノ平の説明板

関東での教化を終えた親鸞上人が京都に帰るために箱根路にさしかかったときに、同行していた四人のお弟子さんの内、特に信頼していた性信房に、関東に戻って完投を指導してくれ、と諭し、ここで涙こぼれる別れをしたそうです。

この時、親鸞は自分の笈(中に経典などを入れて背負うもの)を性信房に与えたため、ここを笈ノ平と呼ぶようになったそうです。

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追込坂を上ればいよいよ甘酒茶屋かな?
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【旧街道休憩所】


11:43 旧街道休憩所
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案内板
「十三、 旧街道休憩所

箱根旧街道 の面影を偲んで
訪れる人々や広く一般の方の
ための休憩所です。
茅葺屋根 の内部は、土間 や
囲炉裏 が設けられています。
無料ですので、ご自由に
お休みください。 」


無料休憩所って、あったっけ?


4travel.jp
クチコミ 2015/5 温泉大好きさん

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箱根旧街道沿いの甘酒茶屋の隣にある休憩所兼資料館です。資料館は以前は有料だったそうですが、今は無料です。メインの資料館は奥まったところにありますのでお見逃ししないように。甘酒茶屋が舞台の赤穂浪士の一人、神崎与五郎の詫状文伝説の場面を再現した人形展示もあります。

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以前は有料の資料館だったんですね。


9:00〜17:00(冬季 12月〜2月は9:00〜16:30)開いているそうです。
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奥のメインの資料館はやっているのかいないのか。受付に誰もいないけれど、奥から人の声はするんですが、声はかけませんでした。

オープースペースに、写真の大名用?の駕籠や、長持などが置かれていました。
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この資料館の手前にトイレ、資料館の先に甘酒茶屋があります。


甘酒茶屋


11:45 甘酒茶屋
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案内板
東海道『箱根地域』における『甘酒茶屋』について

江戸時代、徳川幕府が人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。
東海道はその中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本~箱根関所間、
通称『東坂』)は道が大変険しく、当時の旅人が普通一日十里を旅するところ、
箱根地域では八里しか歩けなかったようです。

道中には『甘酒』をふるまう茶屋が設けられるようになり、
文政年間(1818~1829)には『甘酒茶屋』という記録があり、
箱根地域には9箇所設けられていたようです。

この地には4軒あり、付近の追込坂上、樫木坂上、猿滑坂下にもありました。
しかし、明治十三年(1880)、国道一号の開通などから街道を歩く人々が減少して、
現在ではこの地に1軒が残るのみになっています。 」


どなたかのブログに、「まるで江戸時代から残っているような姿の茶屋」と書いてありましたが、10年前来たときは建て替え工事中で、プレハブでした。

全く建て替えたのか、古い建材も残して改修したのか、は分かりません。
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外国人観光客も多く、甘酒茶屋の従業員さんで英語が堪能な若い女性が流暢な英語で接客していて、アメリカ人のお客様も喜んでいました。

4月1日に来たときはお腹がすいて、磯部餅と味噌田楽を食べました。
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今日は磯部餅だけにして、箱根関所辺りでお蕎麦でも食べよう、と思いました。
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天井から駕篭が吊り下げられていたり、奥側には囲炉裏もあったり。
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甘酒茶屋というだけあって、ほとんどのお客様が甘酒を注文していました。

前回は、歩いているお客様にはノートを書いてもらっている、と言われてノートに記念の一言を書きましたが、今日はお客様が多くて従業員さん達も忙しそうにしていて、残念ながら?ノートは書きませんでした。


【箱根馬子歌の碑と二子山】


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甘酒茶屋を出て、写真のような石畳を上っていると、いかにも観光客の女の子二人がひょろひょろ歩いているので追い越して、その勢いでぐんぐん上っていきました。

途中で、右へ曲がると展望台、真っ直ぐ行けば芦ノ湖、という分岐で外国人が迷っていたので、右を指差して

「view point」

真っ直ぐを指差して

「route」

と言ったら通じたようで、

“Thank you.”

と返されました。彼女は展望台に向かって上っていきました。


12:25 箱根馬子歌の碑と二子山案内板
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4月1日のブログをそのまま引用します。

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箱根馬子歌の碑

箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川

 この広場からは木が邪魔で見えにくいが「二子山」が右手にある。
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説明板。
「 『二子山について』

 二子山は駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始めサンショウイバラやコイワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。
 現在は保護のため入山を禁止しております。

          神奈川県 」


写真は、木々の間から少しだけ見えている二子山。
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【ケンペル・バーニーの碑】


12:37 ケンペル・バーニーの碑
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実は私は、ずっと次の写真の、顔が描いてある碑をケンペル・バーニーの碑だと思ってきました。
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でも、これは二人を紹介しているもので、ケンペル・バーニーの碑は、大きな石碑にびっしり漢字が彫ってある物の方であることが、今回わかりました。


「よみがえった箱根関所」より

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現在元箱根の杉並木脇に立つケンペルの碑は、大正11年(1922)に貿易商を営むイギリス人のシリル・モンタギュー・バーニーが建てたものです。バーニーは芦ノ湖畔に別荘を持ち、この石碑も当初は別荘の敷地内に建てられていました。碑文の内容は2つに分かれます。ケンペルの「日本誌」の序文を引用し、日本人は叡知があり、日本の自然は豊かで美しいと讃え、続いてバーニーの言葉で「日本誌」に紹介されたような美しい自然を大切にせよと言うメッセージが記されています。

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このような紹介を読んでも、今までケンペルさんとバーニーさんについて、ぁりよく分かっていませんでした。

今回、次に引用する「箱ぺディア」のおかげでよくわかりました。

1690〜92年に日本に滞在したドイツの博物学者ケンペルが、帰国後日本のことを紹介した『廻国奇観』を世に出しました。

その後、イギリスの生物学者サー・ハンス・スローン卿がケンペルの未発表資料を英訳して『日本史』として出版し、これが鎖国中の日本を紹介するものとして広く読まれたそうです。

イギリス人貿易商バーニーも、この書を読んで愛日家になり、当時の箱根町長と親交があったバーニーが、この碑を建てました。

ケンペルの書にあるように、日本の自然は美しい。自然を大切にせよ、というメッセージです。

この碑は当初、別荘敷地内にありましたが、交通量が激しくて碑の前に立って碑文が読めないため、杉並木の中に移築されました。街道を歩く人々に読んでもらおう、という意図だったようです。

今では碑文も読みづらく、文章が漢字ばかりでさらに読みづらいのですが、この碑は何だろう、と足を止める人、とりあえず写真に撮る人、そして、私のように、この碑を見ること3回目にして、やっと内容や意味がわかった人もいます。


箱ぺディアより

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日本を、そして箱根を愛し、元箱根に移り住んでいたイギリス人貿易商、シリル・モンタギュー・バーニーが、美しい日本の国土と優れた国民性を讃えて建てた石碑が元箱根の旧街道杉並木にある。
 碑文は次のとおりである。

 西暦千七百二十七年 中御門天皇 享保十二年四月二十一日 倫敦に於て出版せられたるケンピア氏著
日本史序文に曰く
 本書は隆盛にして強大なる帝国の歴史なり本書は勇敢にして不屈なる国民の記録なり其人民は謙譲勤勉敦厚にして其の拠れる地は天恵に富めり
 新旧両街道の会合する地点に立つ人よ此光栄ある祖国をば更に美しく尊くして卿等の子孫に伝えられよ
                                         -箱根にて-
   大正十一年吉日
                              於扇港       無外居士書
                             (神戸港のこと)(バーニーの筆名か)

 ドイツ人の博物学者ケンペル(一六五一~一七一六)は一六九〇年長崎出島のオランダ商館付医師として来日し、一六九二年まで滞在したが、この間二回江戸まで往復し、箱根越えをしている。
 帰国後、日本の自然やヨーロッパに類を見ない歴史、文化、国民性等をまとめ、見聞録『廻国奇観』を世に出した。その後、イギリス人の生物学者サー・ハンス・スローン卿はケンペルの未発表の資料を手に入れ整理して英訳、『日本史』として出版した(一七二七年)。この本は鎖国中の日本を世界に紹介したもので多くの人々に読まれた。
 バーニーもこの本を読んだ大の親日家で、当時の安藤好之輔箱根町長と交友が深く、元箱根の別荘に安藤の協力を得てこの碑を立て日本人に呼びかけたのである。
 太平洋戦争中、帰国したバーニーの邸は、敵国人の所有地として国に接収され、後、大場金太郎に払下げられたが、戦争が終わりバーニーが再来日するに及び急きょ国が買戻してバーニーに返還した。その後バーニーから松下朝次郎が譲り受け現在に至った。
 碑の位置が交差点に面していて車の交通量が多く碑の前に立つことができないため昭和五十一年(一九七六)、箱根町は松下から碑の寄贈を受け、付近の旧東街道の杉並木中に移設し、旧道を歩く人たちの目にふれやすくしたものである。
 昭和五十年(一九七五)五月七日、来日されたイギリスのエリザベス女王は、宮中豊明殿における歓迎晩さん会でのご挨拶の中で「一七二七年にロンドンで出版された日本史の序文で日本人は勇敢な国民であると述べ、『人々は礼儀正しく、勤勉、人情に厚く、商業が栄え、天然の美に恵まれた国土を持つ国』であると書いています。……」と述べられ、「日本のこのような特質にひかれ、明治以来多くのイギリス人が日本を訪れるようになりました」と付け加えられた。
                             (日本経済新聞 昭和五〇・八・十二)
 バーニーが特に愛した箱根の美しさを護ることは、彼がその国際的感覚から讃えた〝光栄ある祖国〟を持つ日本人の心の豊かさを守ることでもあるといえる。


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最初の写真では、石碑に漢字がびっしり、というのも見えないので、ケンペル・バーニーの碑の一部を拡大したのがこちらの写真です。
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【8基目を見つけた!】

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杉並木が現れたので、石畳もおしまいです。

10月9日(水)の1(10/12にアップしました)を引用します。

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石畳はトレッキングシューズだと歩きやすいのかを検証しました。

スニーカーよりはるかに歩きやすいけれど、それでもやっぱり石畳は歩きにくい。

また、普通の道だと、私の愛用のスニーカーみたいに足の裏がソフトタッチではないため、やはりスニーカーが歩きやすい。

今回は日帰りだったので、スニーカーとトレッキングシューズと両方持って行きましたが、泊まりがけで数日間歩くとなるとどちらかを選ばなければならないから、そうなるとやはりスニーカーを選ぶだろうなあ。

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写真の、杉並木の中の下り坂を下り始めると、芦ノ湖畔はもうすぐ。


12:39 「天下の険」碑
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あれ?これって、もしかしてもしかすると…


4月3日のブログより


ネットで拾った話

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「箱根八里記念碑」は、8人の現代一流の文化人の方々の揮毫を、箱根旧街道の要所に建て、かつての大街道としての役割から散策の道としての“箱根八里”の復活を願って作られました。

これらの記念碑には、
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井上靖氏 「北斗闌干」を始め
司馬遼太郎氏「幾億の跫音が坂に積もり 吐く息が谷を埋める 我が箱根にこそ」
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東山魁夷氏 「青山 緑水」
小澤征爾氏 「貴方は 今 歌ってますか」
大岡信氏 「森の谺を背に この道をいく 次なる道に出会う為」
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芹沢光次良氏 「箱根路や 往時をもとめ登りしに 未来の展けて たのしかりけり」
等。

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8基作られたのに、6基の紹介しかありませんね。

もう1基は心当たりがあります。

西坂も大分三島宿に近づいた頃にある錦田の一里塚。

錦田の一里塚は太平一里塚(愛知)、阿野一里塚(愛知)、野村一里塚(三重)とともに、東海道に4つしかない国指定史跡の一里塚として大変貴重なものです。

そしてその一里塚の傍らに建つ、八里記念碑(鈴木宗忠老師)
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日々うらら 松の道場の 一里塚


八里記念碑は、7基までわかりましたが、あと一基がわかりません。



と、ここまでが4月3日のブログ。

私、ついに最後の一基、見つけましたよ。

東坂も終わりに近づき、箱根町の入り口辺り、興福寺の入り口手前にありました。

「天下の険」碑。

どなたの揮毫でしょうか?

ひざまずいて、碑の下の黒い四角のところを凝視すれば分かるかなあ?

撮った写真の原版を拡大したら、確かに小さく人の名前や、その他にも説明が書いてありました。

読みづらいので、間違っていたらごめんなさい。

澤田政廣と読めます。

wikipediaで調べたら、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

澤田 政廣は、彫刻家。静岡県熱海市生まれ。本名は寅吉。日本彫塑会名誉会長。

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だそうなので、多分この方で間違いないと思います。

ついに8基すべて分かりました!万歳!!


芦ノ湖畔】


12:40 興福寺
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12:42 芦ノ湖
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今日は晴れているので湖水も綺麗です。
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【身替わり地蔵と葭原久保の一里塚跡】


12:47 身替わり地蔵
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案内板
「十七、 .身替わり地蔵

宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、
ある年箱根を通りかかった時、何者かに
襲われました。当時弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいのです。幸にも、かたわらにあった地蔵が身替わりになってようやく命が助かりました。それ以来この地蔵を景季の身替わり地蔵と呼んだとのことす。」


前回4月1日に来たときにも、10年前に来たときにも、この身替わり地蔵に気づかなかったので、はじめて見ました。


写真のような、車道の杉並木。
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12:50 葭原久保の一里塚跡
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案内板
「 一里塚
葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚

江戸幕府は、慶長9年(1604)大久保長安に命じ、江戸-京都間に一里ごとに旅人の目印として、 街道の西側に盛土をしました。そして、ここではその上に檀を植えました。この塚は、 日本橋より24番目にあたります。

(一里○ 二、九五二米)
昭和五十七年八月一日

箱根町教育委員会


案内板の最後の方の、「一里○」の○は、読めませんでした。



【杉並木】


12:50 杉並木
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何回歩いても気持ちのいい道です。
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しかし!


出口がぬかるみでぐちゃぐちゃ。

なるべく靴が沈まないところを選んで歩いたのですが、残念ながらさいごには靴が汚れてしまいました。

この後、汚れたトレッキングシューズを脱いで、リュックで待機していたスニーカーに履き替えました。


【箱根八里の碑】


13:05 箱根八里の碑
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写真は「唱歌箱根八里」についての案内板です。
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この碑や案内板については、前回にも書きましたので先に進みましょう。


【箱根関所のアイドル、お杉とお玉】


13:06 箱根関所資料館

この資料館と、復元された箱根関所の共通入場券(通行手形)は500円です。

資料館の下り口の番人のお二人。
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10年前には、その内のお一人とツーショット写真を撮りました。
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4月1日に来たときは、お二人とも外にいなくて、あら残念、一緒に写真を撮りたかったのに、と思いましたが、雨だったから室内に避難していたんですね。

それでその時、私は大いなる勘違いをしてしまいました。

お二人が立っている壁に、

「わたしたちは箱根関所のアイドル、お杉とお玉で〜す」

と書いてあったので、

「えっ、このお二人、お杉とピーコならぬ、お杉とお玉なの?えっ、えっ!杉並木のお杉と、お玉ヶ池のお玉かな?」

と思いました。

で、今日来てみたら、お二人は外で門番をしていて、中に入ると、かわいい女の子のお杉とお玉が、別にちゃんと存在していることがわかりました。

たまたま雨宿り中のお二人が、お杉とかお玉の自己紹介パネルの前に立っていたために、私が勘違いしていたのでした。

資料館内部は撮影禁止ですが、写真の お杉とおたまの写真は、アメブロの「藤田かくじ」さんという方のブログよりお借りしました。
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資料館の中では私のお気に入りの、箱根関所の復元作業のビデオはもう上映されなくなっていて、代わりに「全国の関所」と、「お玉の話」を上映していました。

箱根関所HPより

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お玉の話

元禄15年(1702年)のことです。伊豆国大瀬村(静岡)生まれのお玉という女の子は、江戸(東京)に住むおじさんの家で奉公(家事手伝い)していました。
 しばらくして、お玉は伊豆の実家が恋しくなってしまい、ついに帰ろうと決心し、おじさんの家を抜け出しました。箱根の関所の近くまできましたが、お玉は奉公先を飛び出してきたものだから、通行手形をもっていません。仕方がないのでお玉は厳重な関所の警備を避けて脇の山を越えて抜けようとしましたが、箱根の関所は芦ノ湖から山の上までずっと柵が巡らせてあり、その柵を乗り越えようとして、からまってしまったところを村人に見つかってしまい、関所破りの罪で捕まってしまいました。
 捕まったお玉は、箱根関所の獄屋に入れられ、裁判を経て処刑されてしまいました。2月に捕まったお玉は、4月に処刑されるまで、約2カ月の間、獄屋に入れられていました。
 関所破りは、江戸時代の刑罰の中では親殺しなどと共にもっとも重い罪だったので、お玉も死罪を逃れることは出来ませんでした。本来関所破りは磔という刑が定められていますが、お玉の場合、同じ死罪ながらひとつ刑が軽くなり、獄門(さらし首)とされたようです。
 箱根八里は坂の名前がいくつもついています。お玉が捕まったとされる付近には「於玉坂」という坂の名前がつきました。また、付近にある「なずなが池」は、「お玉が追手を逃れてこの池に身を投げた」とか、処刑された「お玉の首を洗った」などという言い伝えが生まれ、いつしかその名も「お玉が池」と呼ばれるようになりました。

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ビデオによると、お玉はまだ12歳でした。12歳だったために、一番重い市中引き回しの上磔(はりつけ)ではなく、ひとつ軽い獄門晒し首だったようですが、それだってすごい重刑。

それにしてもお玉ちゃんは運が悪い。長い箱根関所の歴史のなかで、実際に処刑された人は実はほんのわずかで、薮入りというお目こぼしがあったそうなのです。

10年前のブログより

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資料館では、人見女の取り調べの人形と、大名行列の人形と、箱根関所の復元工事の映画が印象的でした。

他のお客さんは映画をチョコッと見ると、「大変なんやね」とすぐに席を立ってしまうのですが、私はずっと見ていました。長女に「こういうの、好きなの?」と聞かれました。

好きなんです。前に、飛騨高山の祭の山車を50年ぶりに新調した時の職人の記録映画も面白かった。今日も、大工だけでなく、石工、屋根職人、渋墨を塗る職人など、たくさんの職人たちによって何年もかけて、昔の技術を使って関所を復元したことに感動。復元なんて、とあだやおろそかには出来ません。

おかげで、この後の関所見学も感動ものでした。


資料館でもうひとつ心に残ったのは「薮入り」。箱根で関所破りで捕まったのは5組6人と意外に少ない。それは、多くの場合、道に迷ったということで小田原宿に追い返すことで不問にふしていて、それを薮入りと言うそうです。

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お玉ちゃんは、柵に絡まって動けなくなったのを発見されて目立ってしまったため、道に迷った、という扱いが難しかったんでしょうね。


【箱根関所、江戸口御門と展望見張り番所


13:28 箱根関所

写真は、江戸口御門を中側から撮った写真。
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牢屋や、台所、井戸などを見た後、裏手の階段を上ると(かなり急だし、段数も多いです)見張りの高台からの展望が開けます。
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見張り小屋からは、見張りの番人達のつぶやきもひっきりなしに聞こえてきます。

役人らしいつぶやきもあれば、愚痴もあり、こんないい景色を毎日見られて楽しい、というような呟きも。

私は上りも下りも自力で上りましたが、結構皆さん、上りも下りも手すりにしっかり捕まっていました。特に下りが怖いそうです。

こちらの写真は大番所。家紋を染め抜いた幕(陣幕?)が特徴的です。



【人見女、伴頭、横目付】

これも箱根関所の中です。

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人見女(ひとみおんな)
案内板
「出女を調べるための、女性の役人です。恐ろしげなお婆さんの場合が多く、『改め婆』などとも呼ばれていました。」

ここに書かれている「出女」とは。

wikipediaより

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出女の取締

女性が関所の外側(地方)に出る際には女手形を提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて、手形に記された幕府留守居の印鑑が真正であるかを確認した。女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていた。箱根関の場合は特に厳しく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)が常駐し、出女の監視を行っていた。人見女の検査は厳重であり、髪の毛の有無や身体的特徴、ほくろや妊娠の有無などについてまで吟味されたという。更に女による男装の疑いがあれば、男に対しても同様の検査が行われたとされている。これは通行手形の発行手続が男の方が容易であり、女が男の振りをして手形の発行を受ける可能性があったからである。もっとも、江戸幕府伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があり、これを受けた者については予め幕府が身元を確認したものと看做して、より簡単な手続で済まされる例もあった。

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こちらの写真は面番所の中の様子。
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左は伴頭
案内板
「 伴頭(ばんがしら)
伴頭は面番所の中央奥に座っています。彼は、小田原藩から箱根関所に赴任してきた侍の中で責任者にあたります。」

右側は横目付
案内板
「 横目付(よこめつけ)

伴頭の補佐役で、関所の仕事が正しく行われているかどうかについて、厳しく監督していた役人です。 」

こちらの写真は、京口御門です。
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京口御門を出て、トイレを借りてから、さっき甘酒茶屋で思ったように、お蕎麦を食べようと蕎麦屋を探したところ…

うどん屋さんは営業中。そのお向かいのお蕎麦屋さんはお休み。

隣のバス乗り場に食事処が何軒かあり、蕎麦屋に入ったら、満席でした。

車道の反対側に渡って飲食店を覗いたら、肉丼の店でとても高かったのでパス。

もうお蕎麦は諦めて、帰って早めの晩御飯を食べることにしました。

箱根ホテルまえからバスに乗ってよかった。

次の関所前は物凄く並んでいて、座れない碑とも結構いました。

小田原行きのバスだったので、小田原までバスで行きました。バス運賃は1.200円でした。

本日の歩数 34.946歩 21.31km


これにて箱根番外編終了です。


次は、2度目の東海道五十三次歩き本編5日目の1(元箱根〜箱根峠〜西坂1)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/29/023112