2度目の東海道4日目の2
4月1日(月)の2
三枚橋交差点を左折して三枚橋をを渡って、その先右に曲がると左側にセブンイレブンがあり、そこでトイレ休憩。(10:00)
そのセブンイレブンで「ペコちゃんのほっぺ」を買って食べました。
10:13 湯本小学校の桜がきれいでした。
10:15 白山神社
yoritomo-japn.comより
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箱根湯本の白山神社は、738年(天平10年)、加賀白山の開祖泰澄の弟子浄定が白山比咩神社(しらやまひめ)の祭神を勧請し、十一面観音を刻んで修法を行うと、温泉が湧き出し、その湯が当時蔓延していた疱瘡を治したという伝承が残された神社。
江戸時代までは白山権現と呼ばれ、温泉の守護神として崇められてきた。
『新編相模国風土記稿』には「白山社箱根湯本村及箱根茶屋村の鎮守なり。例祭は一月十九日、村持」とある。
嘉永年間(1848~1854年)に、小田原北条氏の菩提所早雲寺の境内から現在地に移されたという。
祭神
白山比咩大神=菊理媛命
(くくりひめのみこと)
伊奘諾命
(いざなぎのみこと)
伊奘冉命
(いざなみのみこと)
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【早雲寺と弥坂湯、正眼禅寺】
10:16 早雲寺
早雲寺 Wikipediaより
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早雲寺(そううんじ)は神奈川県足柄下郡箱根町湯本にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は金湯山。本尊は釈迦如来。寺内には後北条氏5代の墓[1]、連歌師・宗祇の碑がある。国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画がある。
大永元年(1521年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられている。
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10:20 弥坂湯
弥坂湯は、箱根旧街道沿いに佇む、昭和24年にオープンした共同浴場。地元組合の運営でスタートしましたが、平成19年から町営に変わっています。
朝9:00からオープンしています。
10:22 正眼禅寺
曽我兄弟の像と芭蕉句碑があるそうです。
慶応4年(1868)山崎の戦いで、敗走する遊撃軍が焼き払ってしまい、現在の本堂は昭和7年に他から移築したものだそうです。
【湯本茶屋の一里塚跡と見逃した石畳入口】
10:28 湯本茶屋の一里塚跡
日本橋から22里目。
その先、石畳入り口の標柱があったらしいのですが見逃してしまい、出口の写真がこちら。
10:39 箱根観音福寿院入り口の看板
福寿院にかつて美人の湯があったそうです。
【吹き上がる桜と葛原坂】
10:44 南風荘
南風荘を見下ろす歩道で道を歩いていますが、南風荘の桜が、風が吹く度に吹き上がってきます。
10:58 葛原坂
「『新編相模国風土起稿』には『海道(東海道)中、須雲川村境にあり、登り一町ばかり』としか書かれていません。地名が葛原で、この辺りは今もクズの葉が生い茂っています。」
【はつはなの滝の碑】
11:09 初花の瀑の碑
初花(はつはな)は浄瑠璃、箱根権現霊験記に登場する飯沼勝五郎の。
初花は貞女の鑑と言われているそうです。
初花が対岸の湯坂山の中腹の滝で、水垢離(みずごり)をとったところが初花の滝ですが、 今は樹木に隠れて街道からは見ることが出来ません。
こちらの写真はウラシマソウ。
11:14 駒形神社 青銅製鳥居
11:14 鎖雲寺
臨済宗のお寺です。人形浄瑠璃や歌舞伎で名高い「箱根霊験記いざりの仇討」の主人公勝五郎・初花のお墓と初花堂があります。
箱宝というサイトより
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須雲川の集落をすぎると左手に鎖雲寺の苔むした石段があらわれます。鎖雲寺は、早雲寺の塔頭の一つとして湯本に創建されましたが、東海道が賑わいを見せはじめた寛永7年(1630)に須雲川村に移されました。
本堂の右手の墓地の一角に、小さな五輪塔が2基仲良く並んでいます。これが歌舞伎の「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」で有名な、勝五郎と初花の墓「比翼塚(ひよくづか)」です。
勝五郎と初花の話は、歌舞伎による物語と、口承によって箱根地方に語りつがれたものと二種類がありますが、ここでは、箱根で語られている物語について簡単に説明しましょう。
大阪で剣道の道場を開いていた飯沼三左衛門は、剣道上の口論から付近に町道場を開いていた佐藤剛助・八郎兄弟の恨みをかい、卑怯な闇討ちに遭いました。下手人佐藤兄弟はいち早く逐電、大阪から姿を消してしまいました。三左衛門の息子である21歳の勝五郎は、仇の後を追って旅に出ました。旅の途中、勝五郎は、仙台で道場を開いている新佐衛門に弟子入りしましたが、その新佐衛門には仙台の今小町といわれるほどの美しい初花という一人の娘がいました。二人は恋に落ち、夫婦の契りを結ぶことになりました。勝五郎と初花夫婦は、さらに父の敵を追って諸国を遍歴しましたが、長年の辛苦から勝五郎の足が不自由になってしまいました。ある時、不動明王が勝五郎の夢枕に立って、箱根に良い温泉があるから箱根にいくがよいとお告げがありました。そのため、箱根で養生しながら、箱根権現に願をかけ、大願成就の時を待ちました。ようやく仇にめぐり遭った時、夫婦が返り討ちなりそうになったのですが、箱根権現の加護により突然、霧が湧き上がり、仇を討つことができた。という伝えです。
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【天狗山と女転ばし坂】
11:22 弘法のイボ取り水の碑
岩のくぼみに溜まった水をイボに塗れば取れると伝わっているそうです。
11:24 天狗山神社鳥居
新興宗教の神社だそうです。赤い鳥居には、天使?が飛んでいます。
10年前に長女と来た時は、「日本で唯一の幼神神社」とあったので、長女が見てみたい、というので入りました。
当時は中も撮影自由でしたが、最近、中の第二鳥居の先は撮影禁止だそうです。
なんだか不思議な感じの場所で、長女が想像していた幼神はどこに祭られているのか分かりませんでした。
赤や青や金や、諸々彩色が派手で、心休まる雰囲気ではないので、奥の院的な所までは行かなかったのですが、戻ってきました。
ここの職員さんでしょうか?事務員さんみたいな女性に、
「今度お話会があるのでいらっしゃいませんか」
と声をかけられましたが、断って出てきました。
それが10年前。
今回は鳥居の前を素通り。
11:27 女転し坂
「 女転し坂(おんなころばしざか)
箱根道の難所の一つであり急な坂が長く、馬に乗った婦人がこの附近で落馬し死んでしまったことから『女転し坂』と言われるようになったようです。」
そんな急峻に見えないと思ったら、関東大震災で坂は崩壊したそうです。
案内板の左上の屋根みたいな棒が壊れているのが気になります。
【割石坂と江戸時代の石畳】
11:33 割石坂
曽我兄弟が仇討ちに行く途中、路傍の大石を試し切りした、という逸話があるそうです。
11:37 江戸時代の石畳
関東大震災をはじめ、いろいろ地殻変動もあり、埋もれてしまって復元した石畳も多い中、江戸時代の石畳が残っているのは貴重です。
写真のフェンスのある道は記憶に残っていました。
11:46 接待茶屋跡
接待茶屋跡説明板
「江戸時代後期、箱根権現の別当如実は箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶、飼葉を施し、大変喜ばれていましたが、資金が続かなくなり行き詰まってしまいました。
如実は江戸呉服町の加瀬屋与兵衛らの協力を得て幕府に施行の継続を願い出ていましたが文政7年(1826)ようやく許可が降りました。
再開に当たって、新しく設置する施行所を、畑宿または須雲川を希望していましたが、二ヵ所とも立場であったため許可されず、東坂は割石坂のこの辺り、西坂は施行平に設置されました。」
こちらの写真は、こんな山道みたいなところもある、という写真です。
【畑宿】
11:55 木の橋
木の橋はこの後すぐにもうひとつあり、さらにこの後も幾つか渡りました。
12:06 畑宿本陣茗荷屋跡
畑宿の説明板
「畑宿は、郷土の伝統工芸、箱根細工が生まれ、育ったところです。畑宿で、木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。
江戸時代、畑宿は、箱根旧街道、間ノ宿として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物のそば、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足をとめました。 」
本日の3【畑宿一里塚跡から甘酒茶屋】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/16/115859