紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

畑宿一里塚跡から甘酒茶屋

2度目の東海道4日目の3

4月1日(月)の3


【畑宿一里塚跡と空中の東海道

畑宿の公衆トイレで用を済ませて外に出たら、雨が降っていたので傘を出しました。

12:16 畑宿の一里塚跡
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日本橋から23里目。

石畳が濡れ始めました。
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10年前に娘と来た時、雨で石畳が濡れて滑って怖かったし、歩くのが大変だったのがよみがえります。

江戸時代の旅人は草鞋だったので滑らなかったのだと思います。

しかし、林の中の道のおかげで、あまり濡れなくて、そんなには、滑りませんでした。でも用心に越したことはないので、ずっと気をつけて歩いていました。

12:19 空中の東海道
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道路の上を、橋で渡るため、空中の東海道と呼ばれているようです。


【箱根七曲り】

12:26 箱根七曲り
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自動車はヘアピンカーブを進みます。
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歩行者は写真のような階段で、車道を縫うように進みます。
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息が切れる急階段が続きます。


【橿の木坂】

12:38 橿木(かしのき)坂
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橿木坂説明板

「『新編相模国風土記稿』に、
蛸崖(高く険しい崖)に橿樹あり。故に橿木の名を得、とあります。
東海道名所日記』には、
『険しきこと道中一番の難所なり。
おこと、かくぞ詠みける。
『橿ノ木の
坂をのぼれば
苦しくて
どんぐりほどの
涙こぼる 』
と書かれています。 」

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今は写真のような階段なので、昔よりは歩きやすいのでしょうが、長く長く続くので、途中何回か足を止めて深呼吸しました。

写真は10年前の長女ですが、同じ場所かどうかは定かではありません。
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【雲助と呼ばれた人たち】

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12:49 雲助説明板

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雲助とよばれた人たち
 「箱根の雲助」というと知らない人はいません。ところが雲助とよばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では、人足を登録させ仕事を割当てていましたので、悪さをした人などはいなかったといいます。
 日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなかむずかしく誰でも、すぐなれるとう職業ではなかったようです。
一.力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です。)
二.荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれが造ったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです。)
三.歌をうたうのが上手でないと、一流の雲助とは言われなかったそうです。
こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、駕籠をかつぐ「駕籠かき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
環境省・神奈川県

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12:50 山根橋
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12:57 甘酒橋
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【猿滑坂と追込坂、笈ノ平】
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13:08 猿滑坂(さるすべりざか)

あまりにも急で、猿でも滑るほどの坂だったそうです。

13:20 追込坂(おいこみざか又はふっこみざか)
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甘酒茶屋まで続く緩い坂道。

すぐ横に、親鸞上人と笈ノ平の説明板
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関東での教化を終えた親鸞上人が京都に帰るために箱根路にさしかかったときに、同行していた四人のお弟子さんの内、特に信頼していた性信房に、関東に戻って完投を指導してくれ、と諭し、ここで涙こぼれる別れをしたそうです。

この時、親鸞は自分の笈(中に経典などを入れて背負うもの)を性信房に与えたため、ここを笈ノ平と呼ぶようになったそうです。


甘酒茶屋

13:27 甘酒茶屋
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甘酒茶屋説明板

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赤穂浪士の一人、神崎与五郎の詫状文伝説を伝えるこの茶屋は、畑宿と箱根宿のちょうど中ほどにあり、旅人が一休みするのに適当な場所にありました。
当時この茶屋は、箱根八里間で十三軒あり、甘酒を求める旅人で賑わいました。

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お腹がすいていたので、甘酒茶屋で磯部餅500円とみそおでん450円を食べました。
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私以外のお客さんも数組いましたが、皆さん車でいらっしゃったようです。
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お店の方に、

「歩いていらっしゃったんですか?歩いていらっしゃる方に書いていただいています」

とノートを渡されました。

そう言えば10年前にも書いたような気がします。

「10年前にもここに来たんです。その時は工事中で、この建物はなくて、プレハブでした」

「10年前なら、ちょうど仮店舗の時ですね」

店員さんがすっかり変わって、あの頃のことを知らない人ばかりだったらどうしようと、思ったら、仮店舗のことも知っている方で、嬉しかった。

ノートは全部とってあるそうで、私がもし見たいと言ったら探してくれるようでしたが、時間ももったいないので、出掛けました。

トイレは甘酒茶屋の隣に別棟で建っています。これなら、甘酒茶屋に立ち寄らなくてもトイレを使えますね。

甘酒茶屋を出て、裏手の旧東海道に戻ると、目の前に

「猪が出没しますのでご注意下さいください」

の看板。
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10年前は長女が怖がって、猪が近くにいたら音で逃げるように、膝をパンパン叩きながら歩いていました。


本日の4【白水坂から芦ノ湖】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/16/172207