紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

藤沢宿から茅ヶ崎

2度目の東海道2日目の4

3月23日(土)の4

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遊行寺一里塚跡】

12:59 藤沢市に入りました。
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遊行寺の脇の坂に一里塚跡があります。

遊行寺は通称で、正式には清浄光寺と言います。

wikipediaより

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清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。

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一里塚跡の説明板にはこう書いてあります。

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一里塚跡 (いちりづかあと)


 かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約四キロメートル)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目安として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は何も残っていません。
 左図は往時の面影を伝える史料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺(ゆぎょうじ)が描かれています。その右手に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように盛土されて榎(えのき)が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎の木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。

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    天保12年(1841)年版 『東海道分間絵図より』 「藤沢」
  平成二十年(二00八)三月 藤沢市教育委員会

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遊行寺坂は、箱根駅伝でも出てきます。


坂学会の報告書より

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遊行寺の前にある東海道の坂を「遊行寺坂」といい、馬の背のような急坂でした。この坂を上るときには、乗り物に乗っている人には降りて歩いてもらったり、「立ちんぼう」と呼ばれる駄賃かせぎの人たちに荷車などを押してもらいました。いまの「遊行寺坂」は、二度掘り下げているのでゆるやかになっていますが、道の両側が崖になっており、その上に家が建っているので、かつての道の高さがしのばれます。(「藤沢の地名」より)
 遊行寺は、“藤沢道場”ともいったので「遊行寺坂」を「道場坂」とも呼んでいる。

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坂を緩やかにするために二度掘り下げたから、石垣の壁に挟まれた道なんですね。私はてっきり、切通なのかと思っていました。


小栗判官・照手姫】

遊行寺(清浄光寺)の裏手にある長生院境内には、小栗判官とその家臣の墓、照手姫の墓、名馬鬼鹿毛の墓があります。

今回見に行って、以前見た時と印象が違うな、と思いましたが、写真を見比べてわかりました。

こちらが今回撮ったもの。
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こちらが2008年に撮ったものです。
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囲いの木の色が違います。

よく見ると、同じものなのに、10年経って退色したのだろうと思います。

こちらは照手姫の墓。
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中山道を歩いた時も、小栗判官と照手姫の伝説をあちこちで見かけました。

今回は藤沢の長生院に伝わる、小栗判官・照手姫の伝説を見てみたいと思います。

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小栗判官 wikipedia

長生院(藤沢市)に残る小栗判官・照手姫の伝説

応永22 年(1415年)、上杉禅秀が関東において乱を起こした際、満重(他の資料では小栗判官(小栗助重)の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す)は鎌倉公方足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。その途上、相模の国に10人の家来とともに潜伏中に、相模横山家(横山大膳・横浜市戸塚区俣野に伝説が残る)の娘・照手姫を見初め、結婚の約束を交わす。横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。照手姫は本来上皇法皇の御所をまもる武士である北面武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、理由あって横山大膳に仕えていた。

小栗の行為に怒った横山庄司親子は、小栗を人食い馬と言われる荒馬「鬼鹿毛(おにかげ)」に乗せ噛み殺さようと企てるなど、さまざまな計略を練るものの失敗。しかしついには権現堂にて酒に毒を盛り、家来もろとも殺してしまう。横山は小栗の財宝を奪い、手下に命じて小栗と家来11人の屍を上野原に捨てさせる。この事実を知った照手姫は密かに横山の屋敷を抜け出すが、不義の罪により相模川に沈められかける。危ういところを金沢六浦の漁師によって助けられるも、漁師の女房に美しさを妬まれてさまざまな虐待を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。姫は売られては移り、移っては売られて各地を転々とするが、最後まで小栗への貞節を守り通す。


小栗伝説にふさわしい佇まいを残す湯の峰温泉(上流より湯筒が見えるあたり。)
一方、小栗は地獄に堕ち、閻魔大王の前に引きずり出されるが、裁定により地上界に戻されることができた。しかし異形の餓鬼阿弥の姿で、癩病にかかっており、歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺清浄光寺)の大空上人の助けを蒙り、地車に乗せられて東海道を西進する。小栗が殺された夜、遊行寺では大空上人の夢枕に閻魔大王が立ち、「上野原に11人の屍が捨てられており、小栗のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの体に戻すために力を貸せ」と告げていた。上人はそのお告げに従って上野原に行き、死んだ家来達を葬るとともにまだ息のあった小栗を寺に連れ帰ったのであった。


湯の峰温泉つぼ湯
小栗を乗せた車は大垣青墓の宿で偶然照手姫に行き会うが、2人はお互いの素性に気づかない。小栗は照手姫の手によって大津まで引かれて行く。病はさらに重くなるが、遊行上人の導きと照手姫や多くの善意の人々の情を受けて熊野に詣で、熊野詣の湯垢離場である湯の峰温泉の「つぼ湯」の薬効によりついに全快する。

小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に帰った小栗は兵をひきいて横山大膳を討ち、家来の菩提を弔う。さらに小栗は美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出す。こうして2人はようやく夫婦になることができた。小栗の亡くなった後、弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に小栗と家来の墓を建てた。照手姫は仏門にはいり、永享元年(1429年)に遊行寺内に草庵を結んだという。

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この、照手姫が仏門に入って住んでいた場所が、長生院だということです。


遊行寺の大イチョウ

遊行寺境内には、樹齢700年と言われる大イチョウがあります。

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この大イチョウ藤沢市指定重要文化財(天然記念物)で、案内板にはこう書かれています。

「かっては樹高約31メートルにおよぶ雄大な姿を誇っていたが、昭和57年8月の台風で上部が折損してしまった。樹齢は諸説あり、300~700年と幅があるが、市内隋一の巨木の姿は変わらず、この辺では鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の大イチョウ(県指定記念物)と共に屈指のものといえる。樹高:16メートル、幹周り:6.83メートル」

鎌倉鶴岡八幡宮の大イチョウは倒れてしまいました。

こちらは今回撮ったもの。
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こちらは2008年9月に撮ったもの。
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イチョウの葉が黄金色に輝く頃に見てみたいなあ。

このイチョウは雄なので、銀杏は生らないそうです。


遊行寺橋と高札場跡】

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遊行寺を出て、遊行橋(赤橋)を渡ると、高札場跡の説明板があります。(13:37)
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そのすぐ近くにある藤沢宿交流館前に、高札場の復元がありました。
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藤沢宿の面影】

以前は実家へ行くために車でしょっちゅう通っていた藤沢の古い面影がある通り。

蔵造りの紙屋。(桔梗屋)
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松屋。旅籠小松屋源蔵跡。現在はラーメン屋らしいです。
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内田金物店本店。
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この近くに蒔田(まいた)本陣跡があるはずですが、以前はあったという標柱が取り外されてしまったそうです。

そういえば、この辺りはラーメン屋が多いのですが、13:30を過ぎたためか、閉まっている店がほとんどでした。


義経首洗い井戸】

暫く進むと、白旗交差点の近くに 義経首塚
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と、義経首洗い井戸があります。
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写真案内板にはこうあります。
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「 伝 義経首洗井戸

 源義経鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われ奥州(東北地方)に逃げていましたが、一一八九年に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています。この絵は、歌川国芳が描いた源義経の浮世絵です。
 ここから二〇〇メートルほど来たの白旗神社は祭神として義経を祀っており、境内には、藤沢の御首と宮城県栗駒市の判官森に葬られた御骸の霊を合わせ祀った源義経公鎮霊碑などがあります。また、常光寺南側の公園には、弁慶 塚と記された石碑が祀られています。」

腰越での首実検の後、浜に捨てられた首をここで洗った、というのはかなり壮絶な話ですね。

私は一部民間伝説の、義経が北へ逃げ延び、中国まで渡った、という話にロマンを感じます。さすがに源義経チンギス・ハーンになった、という話は眉唾物ですが。

【やっとランチ!と、おしゃれ地蔵】

すっかりお腹がすいたのに、食べるところが見つからず、駅なら何かあるだろうと思い、小田急線の藤沢本町駅に向かって坂を下りました。

とんかつ屋さんがあったので、入りました。

アジフライ定食、735円。14:12にやっとお昼にありつけました。
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店内はもちろん暖かでしたが、体が冷えきっていてので、上着を脱げませんでした。

アジフライは、普段から美味しいのを食べているので、上を見たらきりがありませんが、このお値段なら上等だし、何せ温かでした。

店を出て、ルートに戻るのに上り坂、きつかった。

でも、上りの方が膝が楽です。今日は朝の一本目から、左膝が痛くて、今日一日歩くのは無理かなあ、と思ったのですが、上り坂が多かったので、なるべく前輪駆動歩きをして膝をいたわってきたので、なんとか歩き続けています。

ドラッグストアーがあったらサポーターを買いたいのですが、飲食店がなかなか見つからないぐらいですから、サポーターを売っていそうな店もない。

さて、県道44号線に戻り、暫く歩いて、引地橋を渡ってまた暫く行くと、14:50 右側に養命寺。
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道の反対側に、おしゃれ地蔵。
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おしゃれ地蔵は、男女双体道祖神で、女性の願いをかなえると言われているそうです。

口元が赤いので、紅を引いているからおしゃれ地蔵と言われるのかな。


【メルシャンワインの坂】

県道44号線のこの坂も、以前、実家に行くときによく通っていた坂で、メルシャンワインの赤い看板が目立つ、工場前の坂。
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気のせいか、ワインの香りがする。

絵手紙は、2008年9月のときのことをブログ用に描いた絵なので、半袖を着ています。
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まだ県道44号線を進み、四ツ谷交差点のところに大山道道標があるはずなんですが、見つけられませんでした。

こちらの写真は、2008年に撮った、大山道道標です。
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【庚申塚】

15:18 四ツ谷一里塚跡。日本橋から十三里目の一里塚だそうです。
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先ほどまで県道44号線を歩いていたのですが、四ツ谷の交差点からは国道1号線に変わりました。

15:22 二ツ家稲荷
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この写真は、 二ツ家稲荷境内の庚申塚
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この庚申塚の内、中央の大きなものは、 寛文10年(1670年)と刻まれていて、藤沢市重要文化財に指定されています。

高さが105センチもあり、真ん中少し下に三つ見えているのは、正面向きの三猿だそうです。

wikipediaより

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庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。

庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、(後略)

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庚申( かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つです。

ということは、60日に一回回ってくるわけで、毎回毎回寝ないで過ごすのは大変ですね。

【牡丹餅立場跡】

15:27 茅ヶ崎市に入りました。
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ここは国道1号線です。松並木も少し残っています。

15:34 明治天皇御小休所阯碑
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15:53 牡丹餅立場跡
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牡丹餅が名物だったそうです。この立場には、紀州徳川家の専用の飛脚中継所である七里役所が設けられていたそうです。


【そうだ、TOTOへ行こう!ふたたび】

10年前、茅ヶ崎に来たときは、家を出るときに子どもたちに、

茅ヶ崎TOTOがあるから見てきて」

と言われ、その日も雨の中、TOTOはまだか、TOTOはまだか、と思いながら歩いたので、TOTOの看板には特別な思い入れがあります。

そのTOTOの看板。
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16:20 茅ヶ崎一里塚跡
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日本橋から十四里目の一里塚。左(南)側が残っています。

本日はここまで。

16:26 茅ヶ崎駅
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本日の歩数 44,414歩。 27.09km


この日も家に帰って寝ました。

明日も早起きで続きを歩きます。

帰りに膝のサポーターを買いました。


東海道五十三次歩き第3日目に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/14/132144