紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

戸塚宿

2度目の東海道2日目の3

3月23日(土)の3

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【ほっと一息タイムと、益田家の大モチの木】

先程の気になる蔵の写真を撮ったら、さっき通りすぎたコンビニで休憩しよう、という気になりました。

少し戻って、イートインのあるファミマでトイレを借りて、桜餅ぜんざいと、マシーンで自分で入れる抹茶ラテでおやつタイム。(10:24)
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普通、暖かい室内で暫く休憩するときは上衣を脱ぎますが、体が冷えていたので、上着は着たままでした。

軍手も買いました。

軍手はいい買い物でした。

思った以上に暖かい。

さて、人心地ついたので出掛けました。

少し行くと、左手に益田家の巨大モチの木。(10:42)

これは神奈川県の県指定名木百選のひとつ、なのですが、あらら、様子がおかしい。

以前来たときにはあった
茅葺きの旧家がなくなって更地になっていました。
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こちらは、10年前の同じ木です。
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検索したところ、すでに所有者は益田家ではなくなり、今の所有者の意向でモチの木も伐採されかけていたのを、周囲の人々からの呼び掛けで残されたものの、一部は既に切られていて、さらに、モチの木自体が既に中は空洞で、死にかけているのだとか。

更地にしただけで枯れるわけがないと思いました。

モチの木は常緑高木なので、冬だから丸裸、と言うわけではないみたいです。

もう寿命の木を、今後どうしていくのか、行く末が気になります。
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【斎藤家の土蔵】

益田家の巨大モチの木の少し先、不動坂交差点手前を斜め左に入ると旧東海道

この先右側に、私が勝手に東海道一の土蔵だと思っていた斎藤家の土蔵と棟門があったのですが、今日見たらなくなっていて、赤レンガ倉庫だけになっていました。(10:48)
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こちらは、前回来たとき2008年に撮った、斎藤家の土蔵です。
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ここは国産初のハム「鎌倉ハム」の誕生の地だそうです。明治20年頃、斎藤家の祖、斎藤角次がイギリス人、ウィリアム・カーチスからハム製造を伝授されたそうです。当時は「鎌倉郡戸塚」だったため、鎌倉ハムと名付けられたそうです。

取り壊された斎藤家の敷地に、分譲住宅が24軒建ったそうです。それほど広大な敷地だったんですね。

巨大モチの木があった益田家と、この斎藤家と、もう一軒岡部家の三軒が昔の有力な大きな家だったそうです。

暫く歩くと、舞岡川に出ます。信号のある交差点で、ついついまっすぐ行きたくなりますが、ここは右に曲がって、その先の舞岡入り口の交差点で国道1号線に合流します。

道の左側を歩いていたため、見逃してしまったのですが、道の右側に江戸方見付跡があります。こちらの写真は、2008年に撮ったものです。
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当時はこの江戸方見付跡の碑はステーキハウスのフォルクス前にありましたが、そのフォルクス戸塚東店は2018年1月31日に閉店したそうです。


【左かまくら道】

街道からは少し奥に外れるため、今回は見に行かなかったのですが、前回2008年に寄り道して見に行ったのが、写真の「くらみち」の石標。
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妙秀寺の境内にあります。
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これは広重の戸塚宿に描かれている「左かまくら道」だというのですが、広重の絵の「左かまくら道」の石標は吉田橋のたもとにあり、さらに「道」と「みち」の表記の差もあります。
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場所が昔とは違う、というのは、工事などで移されることもよくあったのでよいとして、右上が欠けて「くらみち」になったのも納得できますが、「道」と「みち」の違いはなんなんでしょうね。

広重が間違えたのか、作品にするに当たり脚色したのか、実は違う石なのか。

時の流れで謎となったものは、東海道を歩いているとたくさんあります。それもロマンです。


【一里塚跡と大踏切】

日本橋から十里目の一里塚跡があるはずなのですが、見つけられませんでした。

写真は前回来たとき、2008年に撮ったものです。
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広重の絵にもあった吉田橋を渡り、大踏切を渡ろうとしたら、大踏切(写真は2008年撮影)がない!
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ここは悪名高き開かずの踏切だったので、改善されたのでしょう。

踏切がなくなり、写真3のような大歩道橋になっていました。エレベーター付きのところもありました。歩道橋が連携してどんどん広がっていて、さながら歩道橋パラダイス。
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【富塚八幡宮

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暫く国道1号線を歩きます。

本陣跡が2か所、脇本陣跡などもあるのですが、見つけられなかったのか、なくなってしまったのか。

写真は、2008年に東海道を歩いた時に撮った澤邊本陣跡。
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11:38 富塚八幡宮
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戸塚の知名の由来となった八幡宮です。

立派な神輿が納められている建物は、前面がガラス張りで、神輿を見ることが出来ます。

境内に芭蕉の句碑があります。



【大坂】


富塚八幡宮からまた暫く国道1号線を歩くと、かなりの上り坂。大坂です。

大坂の碑が植栽の中にあるはずでしたが、見当たりませんでした。

写真は、2008年に撮ったものです。
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これは、見落としたというよりも、整備されていてなくなってしまったのではないかなあ。

この大坂も、今まで歩いてきた神奈川の台の坂も、権太坂も、改修されて昔よりも傾斜は緩くなっているそうなんですが、でもやっぱり坂は苦しいです。

比較的緩やかな上りなら、膝をあまり曲げないで、前輪駆動歩きで進むとぐんぐん上れるのですが、傾斜が急だと膝を曲げないと足が地面につっかかるので、前輪駆動歩きは出来ません。

11:59 大坂松並木
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この辺りは、人家がないように見えて、バス停ごとに結構人が待っています。

結構覚えているもんですね。

この先にあれがあるはず。


【お軽勘平】

国道1号線の坂を上りきると…

12:06 お軽勘平道行碑
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2008年9月に書いたものを引用します。

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「お軽勘平戸塚山中道行きの場」の碑はバス停横にありました。歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」、昔見たなあ。

暗い山道、「お軽」「勘平さん」互いに見交わす顔と顔。テンテンツクツクと舞踊の一場。

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当時は誰もが知っている歌舞伎の演目(舞踊)だし、私もよく知っているつもりでそれしか書かなかったのですが、今回は調べて書いてみます。

「お軽勘平」とは…

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日本大百科大全書(ニッポニカ)より

浄瑠璃(じょうるり)『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の登場人物で、塩冶(谷)(えんや)判官の家臣早野勘平と相愛の腰元(のちに遊女)お軽。勘平のモデルは赤穂(あこう)家臣の萱野(かやの)三平で、家庭の事情で仇討(あだうち)に参加できなくなったのを恥じて切腹した。お軽は架空の人物らしいが、祇園(ぎおん)に同名の遊女がいたという説もある。ともに人気のある役で、舞踊『道行旅路の花聟(はなむこ)』(通称「落人(おちうど)」)をはじめ多くの書替狂言に登場する。[松井俊諭]



朝日歴史人物事典より

仮名手本忠臣蔵」の登場人物。お軽のモデルは特別いないが,名前は大石良雄が京都山科で抱えていた妾の名といわれている。勘平のモデルは元禄14(1701)年,浅野長矩の刃傷事件という一大事を赤穂に伝えた使者のひとり萱野三平重実。仇討ちの計画が進行中,父から領主への仕官を勧められたので困り果て,同15年切腹したという。芝居では寛延1(1748)年8月大坂竹本座初演「仮名手本忠臣蔵」に,塩冶判官(モデルは浅野長矩)奥方顔世御前の腰元お軽と塩冶家の侍早野勘平重氏として登場し,一途に男を愛する女と,色男であるために道を誤った男として描かれている。塩冶判官が殿中で刃傷事件を起こしたとき,お軽と勘平はそれと知らず密会していたため,ひとまずお軽の故郷に立ち去る(3段目)。そこで猟師として暮らしていた勘平は,誤って義父与市兵衛を殺したと誤解し自害するが,死に際に潔白が証明され,討ち入りの連判状に加えられる(5・6段目)。祇園の一力茶屋に身売りされていたお軽は,大星由良之助(モデルは大石良雄)に届けられた顔世御前からの密書を覗き見たため,一時は口封じされそうになるが,兄寺岡平右衛門らの誠意によって,不義士斧九太夫を討つことになる(7段目)。この作品とは別に「お軽勘平」をクローズアップさせたのは,天保4(1833)年3月江戸河原崎座で付け加えられた清元「道行旅路の花聟」である。鎌倉から落ち行くふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事。純粋で真面目なふたりへの共感が,こうした場も創作させたのであろう。
(武藤純子)

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多分創作部分の物語ではあるのですが、人々の共感を得て、戸塚の山中にこの碑が建てられたのでしょう。
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【原宿一里塚跡】


12:16 原宿一里塚跡
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写真の標柱に書かれている説明によりますと、

「江戸より十一番目の一里塚で、吹上の一里塚とも言われます。当時は松の木が植えられていました。明治九(1876)年、里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要になったので、取り払われました。」

こちらは今回撮ったもの。
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こちらは、2008年9月に撮ったもの。
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【ゆっくり斜めに滑る】

前にも書きましたが、雨の日にマンホールの蓋は滑ります。

10年前、ずいぶんヒヤリとしました。

さて、12時も回り、そろそろ昼食でも、と思うのですが、私は道の左側を歩いていて、何故か右側ばかりに飲食店があります。

その内、二軒ほど飲食店があったのですが、車で一杯。違うところにしよう。

と思っていたら、そこの駐車場から出てきた車が車道に出るタイミングを待って、歩道を横切って停まっている。

危ないので車を避けて飲食店の駐車場側に迂回するために坂を上り、車の後ろ側をぐるっと回って、また歩道に戻るために坂を降り始めた時のこと。

スキーが斜面を横滑りするかのように、私の体がゆっくりと横滑りするしている!
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足元は側溝の蓋。

そうでした。溝の蓋も滑るのです。

つるんっ!ではなかったので、私も慌てず、すぐに体勢を整えられると踏んでいたのですが、そして、だから転びはしないと思っていたのですが、ほしの王子様が蛇に噛まれて、ゆっくりと倒れたように、私も知らないうちに倒れていました。
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スローモーション的な出来事だったので、ダメージはないと思っていたら、頬っぺたを、いえ、正確には、マスクが厚かったため、頬っぺたは免れ、マスクの上側を少し擦りむきました。

マスクさん、私の顔を守ってくれてありがとう。

まさか転ぶと思わないから、びっくりしたし、すぐに起き上がって何事もなかったように歩き始めましたが、内心かなりショックでした。

12:48 諏訪神社
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ここら辺りの影取という地名の由来になった池が奥にあったそうです。

境内に大クスノキがあるそうです。

その影取の地名由来ですが、藤沢市教育文化センターのHPに載っていました。

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遊行寺の東側、滝川のほとりの大鋸(だいぎり)に森というお大尽(だいじん)がいた。森家には大きな池があり、「おはん」と名付けた蛇を飼っていた。おはんはだんだん大きく育ち、一日に酒5升、米1斗をたいらげるほどの大蛇になった。

小田原の北条氏に仕え、大鋸引(だいぎりびき)の棟梁(とうりょう)として、また藤沢の町の触口役(しょくこうやく)〔命令伝達係〕として大きな勢力を誇っていた森家にすれば、蛇の餌代に事欠くようなことはなかった。

しかし、やがて大飢饉が相模の国を襲い、さすがの森家でも「おはん」を飼う余裕がなくなってきた。これを知ったおはんは、家の人の苦労を察し、ある夜池を抜け出すとそばを流れる滝川を遡り戸塚の方へ向かい、上流にあった池に住みついた。「おはん」はこうして池に住みついたものの自分で食べ物を探さなければならなくなった。周辺の食べられるものは食べ尽くし、じっと池の底にうずくまる日々が続いた。

そんなある日、池のそばを通る人の影が水面に写った。ふとその人影を飲んだ「おはん」は不思議に満腹感を覚えた。その後、おはんは池に写った人影を飲んで暮らす様になった。やがて、戸塚でも藤沢でもこの池のそばを通ると大蛇に影を取られ、命を失うという噂が広がり、人々は、大蛇はもと森家に飼われていた「おはん」ではないか?と噂し合った。心配した森家では、退治のために剣術や弓の名人を差し向けたが影を取られこそすれ、退治することはできなかった。

ある時鉄砲打ちの名人が宿に泊まった。森家や村人の依頼を受けた鉄砲打ちは慎重に考え、池から離れた場所に小屋を作ってもらい様子を窺ったが、相手の姿が見えず困っていた。そうしたとき、村人から、かつてこの蛇が森家では「おはん」と呼ばれていたことを聞きおよび、早速池の近くで鉄砲を構え、大声でおはんの名を呼んだ。久し振りに名前を呼ばれた「おはん」は、森家の人が迎えに来たのかと思い嬉しくなって水面に顔を持ち上げた。

その瞬間をのがさず鉄砲打ちが放った弾丸は、おはんの頭を打ち抜き池は血で染まった。そののち、付近の人々は、この池を『影取池』、鉄砲打の小屋の所を『鉄砲宿』と呼ぶようになった。

影取池の跡は、戸塚区の国道1号線と藤沢バイパスの分岐点の東南方約100mにあるかつての影取村の名主羽太(はぶと)家の東側の林の中に痕跡を止めている。

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そこを通る人にしてみればかなりの恐怖ですが、森家に迷惑をかけないようにしたり、人そのものは飲み込まないようにしたり、おはんは気をつかっていたのに、憐れな最後ですね。しんみり。

本日の4【藤沢宿】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/13/221255