紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道2日目 保土ヶ谷宿

3月23日(土)の2


2度目の東海道五十三次 2日目

保土ヶ谷~戸塚~藤沢~茅ヶ崎

f:id:asiandream0804:20200206063431j:plain


保土ヶ谷駅からの出発】


昨日今日明日の3日間は、歩き終わると家に帰り、早朝に家を出てきます。

今日はほぼ1日雨。たまにやみますが、また降ってくるので、折り畳み傘は手に持ったまま。

7:43 保土ヶ谷駅着

身支度トイレなどすませ、雨の中、出発。10.5年前の保土ヶ谷旅立ちも雨でした。

7:55 助郷会所 助郷村の人馬を手配した場所だそうです。
f:id:asiandream0804:20191013142729j:plain

7:56 問屋場跡 公用の荷物運搬(人馬継立)や公用の通信(継飛脚)を担ったそうです。
f:id:asiandream0804:20191013142757j:plain

7:57 高札場跡
f:id:asiandream0804:20191013142814j:plain

踏切を渡り、国道1号線に出ます。


【苅部本陣跡】

国道1号線に出ると、目の前に本陣跡があるので、信号で向こう側に渡りました。

f:id:asiandream0804:20191013142845j:plain
苅部本陣跡。苅部家は小田原北条氏の家臣の子孫と言われ、家長は代々人格者であったそうです。

明治になって、明治天皇が訪問されるに当たり、軽部と誤表記されたそうで、天皇に失礼になってはいけない、と、軽部に改名したという驚きの実話があるそうです。
f:id:asiandream0804:20191013142931j:plain
昔の面影を残すのは、金網塀の中にある本陣門だけです。

10.5年前に訪れた時は、ガイドブックに、軽部家がお住まいなので、騒がしくせず、中にも入らないように、と書いてあり、軽部の表札も掛かっていました。

今回はそういう注意書がないなあと思ったら、表札は外され、家も住んでいる人がいないらしい荒れ方をしていました。
f:id:asiandream0804:20191013143003j:plain

寂しく思いました。


脇本陣、旅籠】

本陣跡を後にして右へ進むと、今いる国道1号線左側には、脇本陣跡が2ヶ所、旅籠跡が一ヶ所あるはずなのですが、脇本陣は見当たらず、旅籠(本金子屋)跡しか見つかりませんでした。

旅籠本金子屋 8:08
f:id:asiandream0804:20191013143057j:plain

私が不注意で見つけられなかったのか、目印がなくなってしまったのか。

10.5年前に撮った写真を2枚貼ります。

こちらは2008年9月18日に撮った、脇本陣藤屋四郎兵衛跡。
f:id:asiandream0804:20191013143918j:plain


こちらは同じく2008年9月18日に撮った、脇本陣水屋与右衛門跡。
f:id:asiandream0804:20191013143947j:plain


【一里塚跡と見附跡】

8:13 一里塚跡と上方見付跡
f:id:asiandream0804:20191013144036j:plain


2008年9月に訪れた時は、こんな様子でした。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【 一里塚復活プロジェクト】

今井川と接する辺りに一里塚があったそうですが、 区民の手で一里塚を復活させようプロジェクト を呼び掛けるポスターが貼ってあり、川沿いの公園が整備されつつありました。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

すっかりきれいに整備されていました。
f:id:asiandream0804:20191013144359j:plain

こちらは、一里塚の復元。
f:id:asiandream0804:20191013144122j:plain

こちらは、松並木復元。
f:id:asiandream0804:20191013144426j:plain

この松並木プロムナードが気持ちよくて、どんどん歩いていってしまうと、保土ヶ谷2丁目の分岐に気づかずに先に進んでしまうので、保土ヶ谷2丁目の信号を探しながら行った方がよいと思います。

保土ヶ谷2丁目の信号から、斜め右に旧道に入ります。


権太坂まで】

保土ヶ谷2丁目の信号から斜め右の旧道に入っていくと、写真のような静かな道に入ります。車は案外通ります。
f:id:asiandream0804:20191013145254j:plain

暫く行くと、写真の樹源寺があり、階段を上ってみたくなるのですが、檀家以外の方の立ち入りを禁じます、と書いてあります。
f:id:asiandream0804:20191013144607j:plain

春のお彼岸で、お墓参りにいらした方々が階段を上っていかれました。

元町ガードの信号で左に曲がり、また少し行くと、左に魚平という魚屋さんがあるところで右に曲がります。

今日は魚平が閉まっていて分かりづらかったのですが、右側に写真の道標があったので大丈夫でした。
f:id:asiandream0804:20191013145334j:plain


権太坂


いよいよ権太坂東海道で最初の急坂と言われています。
f:id:asiandream0804:20191013145412j:plain

f:id:asiandream0804:20191013145448j:plain

あれ?神奈川の台の坂もけっこうな上りだったけど。

足腰が強かった昔の人は、台の坂なんてへのカッパだったのかな。

写真は、権太坂にある小学校前に設置された権太坂の説明板。
f:id:asiandream0804:20191013144841j:plain

10年前に来たときとはリニューアルされていました。

平成31年3月保土ヶ谷区役所、と書いてあるので、設置されたばかりなんですね。

権太坂の名前の由来が2説書かれていますが、私は老人が自分の名前を聞かれたと勘違いして「権太」と答えたという説の方が面白いと思います。

まだまだ急坂は続きます。


【若林家】

f:id:asiandream0804:20191013145550j:plain

f:id:asiandream0804:20191013195656j:plain

権太坂を上って行くとT字路にぶつかり、右に曲がって少し歩くと、右側に写真のような立派な建物があります。本陣門のようですが、ここが境木立場で、牡丹餅が評判だったぼた餅茶屋が、写真の若林家です。

f:id:asiandream0804:20191013145800j:plain



【境木地蔵尊


9:12 境木地蔵
f:id:asiandream0804:20191013145833j:plain

2008年9月にここに来たときのブログをそのまま引用します。(「歩き人、街道を行く」)


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

その(注釈:若林家)すぐ先が、境木地蔵。由来を読んでみると、鎌倉の海で拾われたお地蔵様が村人の夢枕に立ち、「江戸に連れて行ってほしい。願いを聞いてくれたら、村を守ってあげよう と。村人達が大勢で一生懸命坂を上ってお地蔵様をここまで運んできたところ、どういうわけか、にっちもさっちもお地蔵様が動かなくなった。話を聞いたここの村の人達が、お地蔵様を引き取り、安置したところ、村は栄えた、という話。


境木地蔵があるところが一番高い所で、昔はここが、武蔵と相模の境だったところから、境木という地名が付いたそうです。

今の東京都が武蔵の国で、神奈川県が相模の国、と思いがちだけれど、神奈川県の中でも、川崎と横浜の一部は、武蔵の国だったんですね。

お地蔵様の境内はなかなか立派で、手水鉢に水を送っているのは、かわいいお地蔵様でした。よく見ると、お地蔵様が風呂桶に浸かっている形でした。

f:id:asiandream0804:20200206063846j:plain


↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

f:id:asiandream0804:20191013145912j:plain

f:id:asiandream0804:20191013145930j:plain


雨が降っていなければ、ベンチで一休みしたかったのですが、雨でベンチが濡れていたので、境内をひとわたり眺めてから出発しました。


【焼き餅坂と品濃一里塚跡】

境木地蔵の前の道は幾つかに分岐していて分かりづらいですが、よく見ると東海道はこちら、というように道標が出ていました。

ここから焼き餅坂を下ります。
f:id:asiandream0804:20191013153500j:plain

説明板によりますと、



「 焼餅坂
 焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160m)の坂道でした。坂の傍の茶店で、焼餅を商っていたので焼餅坂と名付けられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちさか)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。」

私は前回来たとき、境木地蔵境内で牡丹餅を売っていて、こちらの坂で焼き餅を売っていたのだな、と勘違いしていました。

焼き餅は別名牡丹餅。同じものなんですね。

暫く進むと品濃一里塚跡。(9:24)
f:id:asiandream0804:20191013153540j:plain

f:id:asiandream0804:20191013153558j:plain

説明板にはこうありました。

「 品濃一里塚
 慶長九年(1604)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
 それと同時に、当寺あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要となりました。そのため街道の両側には、一里(約4km)ごとに五間(約9m)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植えられました。これが一里塚です。
 一里塚は旅人にとって旅の進み具合がわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩場所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
 ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。
 このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました。
         横浜市教育委員会  平成七年六月 」


なんと、

「 今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました。」

藪といいましょうか、ごちゃごちゃしていて、道の両脇の塚がちゃんと残っていたんですか!

わからなかった。


【品濃坂】

雨の品濃坂。

こちらの2枚の写真は、今回撮ったもの。
f:id:asiandream0804:20191013153700j:plain

f:id:asiandream0804:20191013153727j:plain

次の写真は、2008年9月に撮った写真です。
f:id:asiandream0804:20191013153750j:plain

前回も今回も雨。

雨の日に気をつけなくてはいけないのはマンホールの蓋。滑って転びそうになります。

初めて品濃坂に来る前に見たガイドブックでは、品濃坂は竹藪か竹垣か、京都の嵯峨野みたいな雰囲気プラスワイルドな感じで、憧れて来てみたら、すっかり住宅地になっていました。

今回、写真1の場所は、ちょっとだけ私の理想に近づいたかも。

さて、品濃坂というと、「お江戸日本橋」の歌詞にも出て来て、中学生の時の合唱交歓会で我がクラスは「ずいずいずっころばし」と「お江戸日本橋」を歌いました。

「お江戸日本橋」は、民謡と言われていますが、お座敷で歌われたり、いろいろあちこちで歌詞を変え異説がたくさん生まれてきた歌らしいのです。

かなり下ネタなども織り込まれており、だから、下ネタ満載の2番、品川、鈴が森や大森辺りの歌はカットされてしまい勝ちらしく、私は本来3番の川崎辺りの歌詞が2番だとばかり思っていました。

私たちが中学生の時に歌ったものは、3番(本来は4番)は、かなり歌詞が変えられていました。

私たちが歌ったのは、

「月はよいよい 品濃坂
戸塚まあえ
藤沢寺の門前で
こちゃ とどめし車を 綱で引く」


これを、元の旋律が分からないほど素敵にアレンジされていて、歌詞も何を言っているか気にならない、そんな歌になっていました。

月の品濃坂、素敵だなあ、と思っていました。

でも、こどもの時に読んだ少年少女版の東海道中膝栗毛では、弥次さん喜多さんが道中夜になって怖い目に合う話もあり、昔の夜道の恐ろしさも想像できるはずなのに、月夜なら素敵なんだろう、と甘く考えてましたね。

それはともかく、お江戸日本橋は歌詞の異説もたくさんあり、必ずしも私が入手した18番まであるものが正統派ではないかもしれませんが、とりあえず、こういう歌詞です。


「 痴話で口説は信濃坂 戸塚まあえ
藤沢寺の門前で
こちや とどめし車そ綱でひく 」


痴話で口説く、が、月はよいよい、に変わってたんですねえ。すごいですね。

せっかくお江戸日本橋の一例18番ものを手に入れたので、またどこかで使いたいと思います。


【品濃坂は終わらない】

f:id:asiandream0804:20191013153855j:plain
坂を下ってきたところに、写真の「品濃坂上」の標識があり、不思議に思ったのですが、実はこんな事情がありました。

「 戸塚区平戸の台地から 急坂を下る 古い歴史のある坂道だが,現在は 坂の途中が環状2号線によって分断されてしまい,東西が「品濃坂歩道橋」でかろうじてつながっているだけなので,これらが もともと つながった一つの坂だという知識がないと,品濃坂の全体は理解しにくい。
 昔の品濃坂の面影は ほとんど失われている。 」

坂学会という研究会があるらしく、その研究報告書の一部です。

わたしが、これで品濃坂おしまい、と思ったのはまだ途中だったんですね。

こちらの写真の矢印に従って階段を降りて、環状2号線を橋で渡り、その先も暫く行くと坂を下ります。
f:id:asiandream0804:20191013153939j:plain

その階段も橋も、その先の坂も、まだまだ品濃坂だったのでした。

静かな住宅街から、やがてバスの通る川沿いの道に出て、川沿いに暫くまっすぐ歩くと、国道1号線に出ます。

東戸塚駅入り口の信号で渡って、また旧道に入ります。

暫く歩くと、また国道1号線に合流し、割りとすぐにまた旧道に分岐します。

やがて国道1号線と合流して、国道1号線を歩きます。

この日はとにかく寒い日で、手袋がなかったので、傘を持たない手を上着で包み、傘を持つ手と上着で包む手を交互に交代しながら歩いていました。

左にコンビニがありましたが、なんとなく通過してしまい、すぐ横に写真の謎の蔵があり、この蔵は独立していて、なんだろうなあ、といつも思うのですが、前回来たときより整備されていて、ほったらかしではなく、使われている蔵のようです。
f:id:asiandream0804:20191013154231j:plain


本日の3【戸塚宿】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/13/200752