案内板
「 倉科祖霊社縁起
倉科左衛門尉時元は、松本平の豪族で、はじめ武田信玄に仕え、川中島合戦のとき、武田の兵糧と財政を受け持ったほどの勇士であったが、信玄亡き後は松本城主小笠原貞慶の愛顧を受け、重臣としての面目をほどこしました。
天正十四年四月、豊臣秀吉が太閤関白に任ぜられるや太閤秀吉の祝辞言上の正使となり、御祝いの品、金銀製の鶏、金銀製の蚕や繭や太刀等を厳重な荷作りをした上でこれを共侍二名にかつがせて上洛の途についた。 与川峠を越えて夕方早く三留野宿のとある旅籠に泊りその日、与川峠越えに雇った人夫や近在の郷士たちをねきらい、賑やかく雑談にふけっていた時、御祝いの品物が金銀製であることを知られてしまった。人夫達は宿の主人を味方に引き入れ、使者を殺害し、宝物を強奪する謀議をこらした。戦国時代のこと、平和な郷士が一夜にして山賊に化けること等は当たり前のことである当時は、時計というものがなく、すべて朝の告げ鴇は鶏鳴によっていた頃のこと、彼等は相喋りながら夜中、鶏の止まり木をはずして、竹の中節を抜いたものに変え、その竹に湯を流し、驚いた鶏の鳴き声を合図に宿をせきたてて出発させた。夜中に夜明けと思い出発したので、行けども行けども夜が明けない。その暗やみを利用して、女滝の北の細道で倉科時元と共侍を殺し、宝物を奪って引き上げた。その時、金の鶏は滝壺に舞いこんでしまったということである。夜が明けて、倉科様たちの死体を見つけた下り谷の農民は、遺骸をねんごろに葬り、このことを松本城まで知らせた。早速多勢の武士が倉科様の奥方と共に妻籠宿まで来て調べたが、戦国末期のこととて誰がやったか判らずに終ってしまった。三留野の宿に引き上げた奥方は、南の馬籠峠の方をきっと睨みつけ、『夫の仇、夫の恨み、粟の穂ほど祟れ』と叫んだ。その祟りであろうか、その後まもなく、下り谷の西山が割れ崩れ、下り谷部落を埋め滝壺まで埋めてしまった。このことは滝壺に舞い込んだ金の鶏が、再び悪人どもに姿を見られまいとして、滝壺を埋めてしまったのだと言われている。
下り谷部落は埋められ、辛うじて命が助かった人々は、これこそ倉品さまの霊の祟りだ、金の鶏の祟りだと、祖霊社に倉科様の霊を祀り、山賊共に盗まれた銀の蚕や繭の代わりに木でこしらえたものを御霊代とし祭祀とした。一度でも祭司をおこたると西山の大崖が蛇抜けを起こしたり、蚕が死んだりするので、今でも毎年四月三日には蚕の神様として近所、近在の人々が多数集り、霊をお祭りしている。 」