案内板
「 中山道茂田井入口
望月宿を抜けると中山道は茂田井に至っている茂田井は、東の望月宿と西の茂田宿の間にある日村で、現在は間の宿とも呼ばれている。ここは茂田井への入口で、坂を下りはじめると、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
寛保二年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿に加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。
元治元年十一月十九日、天狗党水戸浪士の中山道通過に際しては、茂田井村が小諸藩兵士四〇〇人程の宿となっている。
また、文久元年十一月七日には、徳川十四代将軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きなできごとがあった。
一里塚 は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上りきった左右に位置しているが、現在は痕跡がみられるだけである。