紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き26日目の3(鳥居本宿)

二度目の中山道26日目の3
2020年11月11日(水)の3


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鳥居本(とりいもと)宿の旧家】

9:50 旧家
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9:51 旧家
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9:51 旧家
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2016年に撮った旧家。卯建が上がり、虫籠窓を残しています。
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この写真に写っている案内板
鳥居本宿

鳥居本は、江戸から数えて中山道六七次の第六三にあたる旧宿場町です。
当時旅人に道中合羽を製造販売していた店の古い木製看板や、万病に効くといわれる道中薬を江戸時代から製造販売している有川家などに旧街道の名残りがみられます。
旅人たちに木陰を提供した松並木や格子構えの家が並ぶまちをぶらり歩いてみてはいかがでしょう。 」

9:51 茅葺き屋根の家
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9:52 旧家
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【赤玉神教丸有川家】

9:52 赤玉神教丸有川家
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明治天皇鳥居本御小休所
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今回撮った写真では、門の前の案内板がなくなっていました。

2016年に撮った門の写真には案内板がありました。
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案内板(2016年にはありました。)
「  赤玉神教丸有川家

万治元年(一六五八)創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。
有川家の先祖は磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で有川姓を名乗るようになりました。
近江名所図会に描かれたように店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は競って赤玉神教丸を買い求めました。
現在の建物は宝暦年間(一七五一~一七六四)に建てられたもので、右手の建物は明治十一年(一八七八)明治天皇北陸巡幸の時に増築され、ご休憩所となりました。  
彦根市指定文化財

有川家住宅 文化財オンラインより

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 有川家は、中山道鳥居本宿に所在する製薬業を営む商家である。18世紀の初めに本家から製薬業を引き継いで分家し、本家の隣地に住宅を構えたと伝わる。
 街道に面して建つ主屋は宝暦9年(1759)の建築で、文化5年(1808)に上段の間をもつ良質なつくりの書院を増築した。あわせて二階の一部を増築したため、屋根が重なり合った複雑な外観を呈する。
 三棟の土蔵のうち文庫蔵は寛政7年(1795)の建築で、細部に彫刻を施すなど凝った意匠をもつ。粉挽蔵は薬草の製粉、大蔵は丸薬の製造に用いられた。
 有川家住宅は、江戸時代に近江の地場産業として発展した製薬業を営む商家の遺構として貴重であるとともに、江戸時代に整えられた屋敷構えを伝える町家建築としても重要である。

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9:54 旧家
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9:55 湖東焼「自然斎」旧宅
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案内板

「 湖東焼『自然斎』旧宅

江戸時代、『米屋』という屋号の旅籠で、ここに住む岩根治右衛門は、若い頃より直弼の絵の師匠である中島安泰に学び、直弼から自分に自然であるようにと自然斎(じねんさい)の号を賜り、絵付け師として精進していました。

安政三年(一八五六)には普請方の許可を得て、民間で湖東焼の絵付けを行っていましたが、街道の往来が少なくなった明治初期に安曇川に移り、明治十年(一八七七)に亡くなりました。建物内はかつての旅籠の風情を残しています。 」

9:56 デイサービスセンター「鈴の音」
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9:57 彦根市指定文化財(建造物) 岩根家住宅
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彦根市観光協会ホームページより

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景観重要建造物 岩根家住宅

鳥居本町は、彦根市の北部に位置し、江戸時代には鳥居本宿として中山道の宿場町として栄えた。

 天保14年(1843年)の時点で家数は293軒、人口は1448人で35軒の旅籠があったとされている。南では中山道から彦根城下町へ切通道が分岐し、北では摺針峠へ向かう途中に北国街道の分岐がある。現在も、旧中山道沿いに家屋が連なり、宿場町としての面影を色濃く残している。
 岩根家は、この鳥居本宿の特産物であった合羽の製造を営み、明治期には鉄道網を使って米原から東京や三重方面に合羽を出荷していたとされる。昭和に入ると印刷業へと転身したが、現在も主屋玄関軒下に合羽屋の看板を掲げ、合羽製造を営んでいたことを伝えている。
 また、岩根家は旧中山道の沿道、鳥居本宿の本陣の向かい側、脇本陣の隣に位置し、敷地は間口が3間、奥行きが19間の長方形の敷地に、旧中山道から主屋、庭、その奥に土蔵が建っていた。主屋は 旧中山道に接して立ち、梁間が7間、桁行が8間の切妻造り・桟瓦葺・平入りの形式となっている。
 岩根家は嘉永3年(1850年)の「家相図」が残っており、建物調査の結果からいくつかの改修・改変はあるものの全体として創建当時の外観を維持しているとともに、室内の間取りも良好な状態で維持されていることが判明した。
 このように岩根家住宅は、鳥居本宿場町における商家を物語る造りであるとともに、往時の合羽製造を営んでいたことを知ることができる貴重な歴史的建造物である。

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9:57 鳥居本宿案内板
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案内板
鳥居本宿

鳥居本は、江戸から数えて中山道六七次の第六三にあたる旧宿場町です。当時旅人に道中合羽を製造販売していた店の古い木製看板や、万病に効くといわれる道中薬を江戸時代から製造販売している有川家などに旧街道の名残が見られます。

旅人たちに木陰を提供した松並木や格子構えの家が並ぶまちをぶらり歩いてみてはいかがでしょう。 」

中山道は板橋から守山まで67次だが、一般にはゴールは京都になるので草津、 大津をいれて69次といわれている。


9:57 合羽所「木綿屋」
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案内板
「 合羽所『木綿屋』

享保5年(一七二〇)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向かう旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(一八〇四~三〇)には一五軒の合羽所がありました。
天保三年(一八三二)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します。 」


9:58 旧本陣 寺村家
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案内板
「 旧本陣 寺村家

鳥居本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の臣下にありましたが、六角氏滅亡後、 小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603)鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。本陣屋敷は合計二〇一帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和十年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。倉庫に転用された本陣の門が現存しています。」 

9:58 鳥居本駅への角の紅殻の家
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9:59 鳥居本駅
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10:00 脇本陣・問屋跡
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案内板

脇本陣・問屋跡

鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設でる問屋場です。人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに五十人の人足と五十疋の馬を常備するよう定められていて、次の宿まで常備した人足や馬を使って荷物を運んでいました。 」

さて、この先で、2016年に訪れた時はイケメン石田三成に出会ったのですが、今回は会えませんでした。

2016年のブログより

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2016年 9月5日(月)

【いきなりイケメン石田三成


鳥居本駅から3分ほど歩くと、脇本陣跡。

この後、鳥居本宿にはめくるめく旧家のこれでもか攻撃に見舞われるのですが、それらを押さえてぶっちぎりのカリスマの旗を発見!

写真を見てください。

鳥居本お宝発見隊 石田三成佐和山城
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むむ…

なにやらイケメン。

ぐぐっと近寄れば、こちらの写真。
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石田三成さま。キッラーン☆

歴女じゃなくてもクラクラです。

佐和山城彦根市とは聞いていましたが、そうなんだ、ここ、鳥居本なんだ!

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10:01 旧家
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10:02 合羽所「松屋
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案内板
「 合羽所『松屋

江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は一九七〇年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています。
二〇〇一年には、かつての家屋の構造をいかしながら改修されました。 」

10:04 木造常夜燈
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10:04 旧家
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10:04 鳥居本宿の標柱
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10:06 長池地蔵尊
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10:07 登録有形文化財 紅殻の家 成宮家
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文化財オンライン

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中山道鳥居本宿に西面して建つ町家。木造平屋一部二階建で上部を漆喰塗込として虫籠窓を穿つ。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にトバコと呼ぶ物入を設けるなど彦根の町家の特色を備える。

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10:08 旧家
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10:09 専宗寺
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10:11 十割手打ちそばの店 百百百百(どどもも)
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百百百百ホームページより


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ようこそ百百百百へ

百百百百(どどもも)は彦根市の東端に位置する中山道鳥居本宿の古民家『百々家住宅』を改装した、こだわりの蕎麦屋です。
江戸時代末期の古民家(有形文化財にも指定されております)で本格手打ち蕎麦をご賞味 ください。
当店の蕎麦は香り味を追求するため、玄蕎麦の状態で仕入れ、手挽き石臼と電動石臼で自家製粉し、優良な湧き水で手打ちします。
地産地消にこだわるとともに、季節によっては故郷である長野で松茸・蕗の薹・蕨などを取りに帰り季節の膳として提供します。
冬には滋賀県では珍しい長野名物のとうじそばもお出しします。

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10:12 中山道道標
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彦根観光協会ホームページより

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石碑 中山道彦根道分岐道標

中山道鳥居本宿の南端近く、中山道彦根道と交わる地点の南西隅に設けられている道標です。

 幅・奥行きとも25.5㎝、高さが124.5㎝の角柱状で、上端はやや丸く納めています。石材は花崗岩。細長い4側面の内、3面に文字が刻まれています。南面に行書体で「左 中山道 京 いせ」、東面に同じく行書体で「右 彦根道」、北面には楷書体で「文政十丁亥秋建之」とそれぞれ記しています。
 中山道など江戸時代の主要街道には、多くの道標が設けられました。これらの道標は、道そのものを標示したものと、名所旧跡を案内するタイプに分けられますが、本例は前者に分類されます。
 道標が設置されて4年後の天保2年(1831年)に描かれた「鳥居本宿絵図」にはこの道標の表記があり、中山道と分岐した道の先には「彦根道」と記されています。彦根道は中山道彦根城下をつなぐ道。江戸時代には切通道あるいは朝鮮人街道とも呼ばれましたが、江戸時代以前は佐和山の太鼓丸の堀切を経由して大手(鳥居本)側と彦根側をつなぐ城内の道であって一般の人々の往来はなく、また、山田町地先から中山道(当時の東山道)までの間に道もありませんでした。両者間に新道が造られ、彦根道として整備されるのは、彦根藩2代井伊直孝の時代のことです。
 この道標は、制作年代が明確でほぼ原位置を留めており、また設置して4年後に描かれた宿絵図にも描かれるなど、滋賀県を代表する道標の1例として貴重です。

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二度目の中山道26日目の4(古宿から高宮宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/24/135323


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003