2度目の東海道13日目の2
5月21日(火)の2
【舞坂松並木と舞坂橋】
9:14 舞坂松並木入り口が見えてきました。
舞坂の松並木は素敵な松並木。こんな大雨でも、歩くのはたのしい。風が大分おさまってきたこともあります。
ただ、松の緩衝帯を飛び越して、車の水飛沫は飛んできます。
この松並木は、約700メートル続いているそうです。
松並木中盤あたりでしょうか。
9:23 舞坂橋跡
案内板
「ここには江戸時代、舞坂宿唯一の橋である舞坂橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南側から松並木を横切って、昭和10年頃まできれいな水が流れていました。天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。
字 舞坂橋
1. 土橋 長7尺 横3間 橋杭 4本立弍組
是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛りにて御普請これあり。
(中略)
文化14年(中略)土橋のため保持に難あり。宿役で板橋に掛換えをした。
「まいさか」は、駅名と町名は舞阪、宿場は舞坂と書くようです。
【北は十二支、南は東海道五十三次】
今回は道の右側を歩きました。
10年前は道の左側を歩きました。
10年前のブログ
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西へ向かう人は、左側歩道がお勧めです。日本橋から京都三条大橋までの五十三次の銅版画が並んでいて、今まで歩いてきた道のりを思い浮かべて、涙が出ました。
反対側歩道には、十二支の石像があるらしいです。
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今回見た十二支の石像のうち、ニワトリの石像。
10年前に撮った箱根の銅版画。
やはり10年前に撮った袋井の銅版画。
【浪小僧】
松並木を抜けたところに小さな公園があり、その公園の入り口に浪小僧の像があります。
絵手紙は10年前のブログ用に描いたものです。
浪小僧説明板
「むかし遠州灘の浜では地曳網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり、小僧を殺そうとすると、小僧は
『私は海の底に住む浪小僧です。命ばかりはお助けください。その代わりご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします。』
と言うので海に戻してやりました。
それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。
遠州七不思議より 」
遠州七不思議は、たくさんあって、いろいろな組み合わせがあり、どの七つをとるか決定版はないようですが、この浪小僧のと、小夜の中山の夜泣き石は必ず入るようです。
この公園のトイレに入ったら、トイレの床が、この悪天候で水浸し。長靴で助かった。
床は冠水していましたが、トイレはきれいでした。
公園のすぐ先に、史跡見付石垣
案内板
「 史跡見付石垣
この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。
石垣の起源の詳細は明らかではないが、宝永六年(一七〇九年)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持って番人が立ち、治部袋の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。
舞阪町教育委員会 」
【舞坂宿 常夜燈と一里塚跡】
9:39 新町常夜燈
案内板
「舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞坂宿では、文化6年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。
常夜燈の竿石の四面には、両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の進入を防ぎ、地域を鎮めるとともに、やみ夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。
同じく9:39 一里塚跡
案内板
「(前略)
舞坂の一里塚は、日本橋から68里(約267km)に位置し、松が植えられていた。
9:47 仲町常夜燈
案内板の説明は、前出の新町常夜燈とほぼ同じなので、割愛します。
【舞坂宿 本陣跡 脇本陣跡】
9:52 本陣跡
石柱脇面の説明
「この地は東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で、江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊・休息したところです。
舞阪町教育委員会 」
9:53 脇本陣茗荷屋
脇本陣は受付の方などが待機していましたが、この悪天候で誰も来ないだろうと思っていたところに、ポンチョにレインズボン、長靴の重装備の旅人が現れたので、びっくりしていました。
玄関前の説明板の写真を撮っていたら、
「どうぞ中へ」
と招き入れてくれましたが、
雨でびしょ濡れだし、前回来た時はじっくり見学させていただいているので、今日は中には入らないつもりでしたが、土間からでも写真を撮ってください、というので、次の写真を撮らせていただきました。
脇本陣茗荷屋。ずぶ濡れなので上がるのは遠慮して、土間からだけ撮らせていただいたのがこの写真。
こちらの2枚の写真は10年前に撮ったものです。
10年前のブログ
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舞坂宿脇本陣茗荷屋は、書院などが残っていたため、史蹟として指定され、昔の柱などを何パーセントか残すことによって文化財指定を受けて、残りの部分は復元されました。
中は無料で公開され、説明もしてくれました。名古屋からオートバイで来たという青年と一緒に話を聞きました。
脇本陣は本来、平屋建てなのですが、茗荷屋は旅籠も兼ねていたので、二階がありました。
脇本陣を廃業してからは、役場に使われ、その後は医院として使われていたこともあったようです。
間口はあまり広くなく、鰻の寝床のように縦長な構造です。
これはかまど。
ここの風呂は五右衛門風呂ではなく、桶式の風呂です。奥の方に殿様用の塗りの風呂桶がありましたが、塗りの桶は見本で、実際には殿様は自分用の風呂桶を持ってきたそうです。他人が入ったものを嫌ったり、毒をもられないように、ということもあったし、当時の大名行列は、家財道具一揃え持ち歩いていたそうです。
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【雁木と今切れの渡し】
9:56 西町常夜燈
本陣跡、脇本陣跡のあるメインストリートを抜けると、東海道は海に出ます。
今切れの渡し、で、3つの雁木(がんげ)から船で新居宿へ向かいます。
世界大百科事典より
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いまぎれのわたし【今切渡】
東海道舞坂宿・新居(あらい)宿間の渡船場。遠江国(静岡県)の浜名湖は,元来淡水湖で湖から遠州灘まで浜名川が流れ,そこに浜名橋が架けられていた。しかし,1498年(明応7)と1510年(永正7)の地震・津波により決壊して〈今切〉となり,交通は新居~舞坂間27町を渡し船に頼ることになった。この船路はその後の津波の被害により,1699年(元禄12)に1里,1707年(宝永4)には1里半に延長した。江戸幕府はこの地に新居関を創設。
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10年前のブログ(脇本陣で聞いた話し)
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当時は東海道五十三次を十二泊十三日で旅し、一日40km歩いたそうで、大きな宿場、浜松から近い舞坂の宿に泊まる人は少なかったそうですが、高波などで渡し船が出ないと、舞坂に泊まったそうです。
明応7(1498)年、大地震で浜名湖と海とを隔てていた陸地が切れてしまって出来た渡しなので、最近出来た渡しという意味で、今切れの渡しと呼ばれました。
今切れの渡しを渡った先の新居には新居関所があり、入り鉄砲に出女の詮議が厳しく、女性はまず通してもらえないため、女性は見付の分岐から御油まで姫街道を通る場合が多かったそうです。
また、今切れのせいで新居と舞坂の交流がなくなり、新居と舞坂は近いのに、文化や言葉が違うそうです。
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この辺りは、かつて本雁木(ほんがんげ=当時のメインの渡船場)があった辺りです。
本雁木から左の方(南)に行くと、南雁木(みなみがんげ)跡。
案内板
「 渡荷場(とかば) 南雁木(みなみがんげ)
江戸時代、舞坂宿には3箇所の渡船場があり、ここはそのうち一番南側の渡船場跡で渡荷場といい、一般庶民の乗降にも利用したが、その名のように、主に東海道の輸送用荷物の積みおろしをした場所である。袖石垣と浪除石垣は昭和25年から始まった漁港改築工事により姿を消したが、水神宮は、もとは30メートルほど東の地点に鎮座していたが、ここに移された。
10:10 北雁木(がんげ)跡
案内板
「 史跡 北雁木
ここは浜名湖今切れ渡しの舞坂宿側の渡船場で、名歴三年(一六五七年)から寛文元年(一六六一年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和二十六年の台風で石垣が崩れたため積み直したものです。
雁木とは階段状になっている船着き場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔から言っています。
舞坂宿は三箇所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場(とかば)。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡荷場で、本雁木と喚ばれています。
この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(役割18メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。
広重が描いた舞坂港の絵。
この絵看板が北雁木入り口に設置されています。
スマホの電池が切れたので、屋根を探していたら、2台分ぐらいのガレージの車が出払っていて屋根がある、個人宅というよりは、営業所らしいところの屋根をお借りして、まずはポンチョを脱ぎ、リュックから充電器を出して充電準備をしてウエストバッグに入れ、その分ウエストバッグがぎゅうぎゅうなので、すぐには使わないタオルハンカチなどをリュックに移しました。
またリュックを背負ってポンチョをかぶって、傘を差して、再び出発です。
【10年前の鰻の話】
江戸時代の東海道は、舞坂から新居まで、今切れの渡しの船で行きましたが、今の私たちは船がないので、国道一号線を歩きます。
(10年前は弁天島を歩きました)
10年前はランチタイムが過ぎて店が軒並み閉まってしまい、弁天島を空腹でさ迷いました。
コンビニでおにぎりを買って、もう少しだけお店を探そうと頑張ったら、鰻を食べられる店に出逢えました。
今回は、10年前におにぎりを買った、その同じコンビニで、プリンと缶コーヒー。本日2回目のおやつです。
コンビニから見える赤鳥居。
天女伝説のある神社の鳥居です。
左に見えた写真のお店、もしかしたら10年前に鰻を食べた店ではないでしょうか。
10年前のブログ
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とにかく右に渡り、長い橋の歩道を歩き、新弁天島辺りで営業中のお食事処を発見!やった!お握りは夜食べればいいや。とにかくこの店に入ろう。
「はませい」という店で、かなり広いフロアが個室お座敷風に分かれていて、私は一番奥の浜名湖側の、四卓ある部屋に通されました。
隣の部屋に先客のカップルがいました。部屋と部屋の境の襖は開いているので、隣のカップルの女性の後ろ姿が見えました。
私の席は日が当たって眩しいので、障子を閉めに行きました。私の部屋には幸い他の客はいなかったので。障子の向こうには、青い浜名湖が広がってきれいでしたが、眩しいのは嫌だし、さんざん浜名湖を見ながら歩いてきたので、障子を締めました。
牡蠣は鍋しかないので、うなぎを食べることにしました。
うなぎ定食とうな重が同じ値段なので、多分うな重はうなぎが沢山入っているのでしょう。
静岡に住んでいた頃に、浜松の方にお勧めの店に連れていっていただいたのですが、実はあまり美味しくなかった、体験があります。
だから、いくら名物でも、鰻ばかりいっぱい食べて美味しくなかったら嫌なので、店ご自慢のお造りが付いているうなぎ定食にしました。
「今日は浜名湖の天然の鰻が入っていますがいかがなさいますか?」と聞かれましたが、天然物は6,300円だそうです。
車でわざわざ浜名湖にうなぎを食べに来た人なら、是非天然物を食べるべきですが、私は歩く旅の者ですから、昼食に6,300円は払えません。夕べのホテル代と同じ値段です…
上ではなくヒラの定食と言っても、3,675円、歩く旅における昼食代としては高いお値段です。
だから、普通なら、3,675円といえば、今日はかなり豪華な昼食を食べているのに、隣の部屋のカップルが天然物を頼んで、横長い木製器からはみ出て蓋ができない、凄い!と言っているのを聞いてしまうと、ちょっぴり…
いえ、後悔はしてません。やはり6,300円は高すぎる!でも…たまたますぐ隣に天然物を頼んだカップルがいたのは運が悪かった。はみ出た鰻の話が羨ましかった。
3,675円は十分高い、贅沢昼食です。
それに、私が食べたうなぎは、浜名湖産の養殖うなぎで、天然物が入らなかった日なら養殖でも、我が店のうなぎは美味しいですよ、と自信をもって勧めるはず。
惑わされるな。自分の舌を信じろ!
私が食べたうなぎ定食。刺身、美味しい。もずく酢、合格。茶碗蒸し、美味しい。ご飯&やたら大きな歯応えある大根の漬け物、美味しい。肝吸い、幸せ。そして…うなぎ…美味しい!浜名湖のうなぎは美味くない、と、この20年間思ってきた、私の中の常識は覆されました。店と値段にもよると思いますが、少なくとも、今日食べた浜名湖養殖うなぎの「はませい」のうなぎ定食は美味しかった!
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今回見た店が「はませい」かどうかの確認はとれませんでした。位置的にはそうだと思うのですが、弁天島、はませい、で検索すると、外観がもう少し白っぽい店なんです。建て替えた、外装を塗り直したけれど、やはり「はませい」なのか違う店なのか。
2度目の東海道13日目の3(新居宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/24/230742_1