2度目の東海道16日目の4
5月29日(水)の4
【伝馬町の一里塚跡】
11:47 喫茶店しんげつを目印に左斜めの道へ。
喫茶店しんげつ、気になりますね。後で調べたら昭和レトロな店で、焼きそばなどのメニューやモーニングが充実したお店だそうです。
11:52 伝馬町の一里塚跡
そして、一里塚跡の右下に案内板。
宮地区の歴史
案内板
「 熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町『宮宿』として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため『七里の渡し』と呼ばれ熱田社の門前町であることから『宮の渡し』とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。」
【裁断橋跡】
11:53 裁断橋跡
案内板
「 裁断橋跡
宮の宿のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(1590)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。33回忌にあたり、再び架け替えを志したが、それも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
また、裁断橋跡と同じ敷地内、右隣に、姥堂と都々逸発祥の地の碑があります。
案内板
「姥堂は は延文3年(1358)の創建。本尊姥像は熱田神宮から移したものといわれ、、『おんばこさん』と親しまれてきました。第二次大戦で焼失しましたが、平成5年に復元しました。」
「発祥の地コレクション」より
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「都々逸」は, 七七七五調を定型とする短詩。五七七七五 という形式をとることもある。元来は 三味線を伴奏とする俗曲で, 寄席や座敷などで唄われ 男女の情愛を題材とした内容の ものが多い。 江戸末期・天保年間に“都々逸坊扇歌”という人物が江戸の寄席で流行らせたと言われるが, その起源は 上方を中心に流行していた「よしこの節」に「名古屋節」の合の手 「どどいつどどいつ」を取入れ, 唄いやすいように改良したという説が有力とされる。
この地がなぜ 発祥の地 とされたのかは, 資料が乏しく不明。
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10年前にここを通った時は、もうかなり暗くなっていましたが、はっと足を止めるインパクトのある場所です。
【三叉道標とほうろく地蔵】
12:00 三叉道標
この三叉道標は以前は道路反対側の真向い(東南端)に建っていて、平成27年に東海道と佐屋街道の分岐角(デイサービス介護施設の前)に移設されたのだそうです。
《三叉の道標=追分》
道標は、東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点に当たる重要な三叉路で、寛政2年(1790年)に設置されました。
東・・・北=さやつしま(佐屋津島)道
同=みのち(美濃路)道
西・・・東=江戸かいとう(街道)
北=なこやきそ道(名古屋木曽)
南・・・寛政二庚戌年
北・・・南=京いせ七里の渡し
是より北あつた御本社貮丁
12:01 ほうろく地蔵
案内板
「 この地蔵さんはもとは三河国重原村(現在知立市)にあったが、野原に捨石のようになっていた。ところが焙烙を売りに尾張に行くものが、荷物の片方の重しにと石仏を運んできて、焙烙をうりつくしたあと、海岸の葦原に捨てて帰った。
地元の人が石仏を発見し、安置しようとしたら、動かないので、怪しんでその下を掘ってみると、そのお地蔵さんの台座と思われるものがでてきて、ここにほうろく地蔵としてまつりました。(以下略)」
12:01 歩道橋を渡る
歩道橋を渡った後、少し先まで進んで左折するのが正解だったのですが、渡って左の方の道に入ってしまい、しばらく道を間違えて歩いていました。
【赤本陣跡】
12:05 宮の宿 赤本陣跡
実は、赤本陣跡の案内板を見た時点で旧東海道ではなく、外れていたのですが、本陣跡ということは道が合っている、と思ってしまい、かなりうろうろしました!
宮の宿赤本陣跡(あつた蓬莱軒本店敷地)
案内板
「 宮の宿赤本陣跡
宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本らの公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していました。本陣職を承った者は土地の有力者に限られ、代々世襲で、赤本陣は南部新五左衛門が務め、苗字帯刀を許されていました。
天保年間(1830~44)の「東海道宿村大概帳」によれば建坪236坪となっており、南部家の記録では、間口数16間、奥行き21間であったと記されています。
戦災によって本陣の遺構は全くありません。
【宮の渡し公園】
12:43 宮の渡し公園
この写真は、時の鐘です。
七里の渡し wikipediaより
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航路
慶長6年(1601年)、東海道に伝馬制が実施され、53次の宿駅の設置が始まった。熱田(宮)宿と桑名宿の間は海路「七里の渡し」で通行することになった。
元和2年(1616年)、東海道における唯一の海上路で「七里の渡し」が始まった。七里の渡しは、満潮時に陸地沿い航路が約7里(27㎞)で、干潮時に沖廻り航路が約10里(39㎞)であった。
七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来する。渡し船によって移動し、所要時間は約4時間であった。「桑名の渡し」、「熱田の渡し」、「宮の渡し」、「間遠の渡し」などとも言った。天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の難所の一つであった。海上を避ける迂回路としては、脇往還の佐屋街道があった。宮宿、桑名宿は渡船場として賑わい、旅籠屋数でそれぞれ東海道における1位と2位の規模を誇った。
現在でも七里の渡しに関する遺構を見ることができる。また、往時を偲んで、熱田・宮の渡し跡-桑名・七里の渡し跡間を観光船で巡る「平成七里の渡し」が企画、開催されることがある。
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常夜灯
大きい木製の塔は「時の鐘」、その隣の小さい方が常夜灯です。
熱田湊の常夜灯
案内板
「 熱田湊常夜灯
この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。
常夜灯は寛永二年(一六二五)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために承応三年(一六五四)に現在地に移り、神戸町の法勝院に管理が委ねられた。寛政三年(一七九一) 付近の民家からの出火で消失。同年成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和三十年復元した。
「日本旅マガジン」より
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船の出入りの目印となった常夜灯は、1791(寛政3)年に火災にあっていますが昭和30年に復元整備され、今も公園のシンボルに。
戦災で焼失した「時の鐘」も昭和58年に再建され、8:00、正午、18:00に鐘楼に吊された鐘が鳴り渡っています。
七里の渡しを控えた宮宿(熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場で、実は東海道最大の宿場町。
1843(天保14)年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁した大きな宿場でした。
ちなみに宮〜桑名の所要時間は4時間くらいだったので、時速4ノット(時速約8km)の船速と推測でき、のんびりとした船旅だったことがわかります。
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絵手紙は宮の渡し幻想。船着き場は再現されていますが、今は絵に描いたような帆船は浮かんでいません。
案内板
「 松尾芭蕉と七里の渡し
松尾芭蕉(1644~94)は、日本を代表する俳人で「野ざらし紀行」「おくの細道」や「古池や蛙飛び込む水の音」などの句が有名です。
旅の初期に熱田を度々訪れ、林桐葉(現熱田神宮南門付近)の計らいで、名古屋、鳴海の門人達と交流。七里の渡しから舟遊びで、あゆち潟(愛知の語源)を楽しみ、熱田三歌仙を残しました。
「この海に 草鞋(わらんじ)捨てん 笠しぐれ」妙安寺石碑
「海暮れて鴫の声 ほのかに白し」妙安寺石碑五・五・七
「なんとなしに 何やらゆかし すみれ草」宮中学校石碑
この舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する「芭蕉の時代」となるきっかけが生まれました。後に名古屋が「蕉風発祥の地」と言われる由縁です。
また熱田神宮が「蓬莱宮」と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています。
案内板
「 宮の宿とシーボルト
ここ宮(熱田)の宿・神戸(ごうど)の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。
名古屋の本草(ほんぞう)学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが文政9年(1826)2月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、4月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。
彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。
【熱田荘と現代の七里の渡し選択】
10年前のブログ
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2009.01.28.
江戸時代は宮から桑名は七里の渡しといって、船で行きました。
しかし、今は当時のままの船はありません。
東海道を歩く現代の旅人にとって、七里の渡しをどうするか、大きな問題です。
電車やバスで行く人、期間限定で復活した渡し船に乗れたラッキーな人もいますが、国道1号線を歩く人、渡し船を嫌って敢えて遠回りする佐屋街道を歩いた人もいます。
私は、宮から桑名まで、国道1号線を歩きました。現代の東海道、ということで。
本当は佐屋街道を歩きたかったのですが、下調べ不足だったため、ポイントポイントは佐屋街道に近い国道1号線を現代の東海道に設定しました。
この区間はガイド本もないから、国道1号線なら道を間違えることもないし(笑)
朝一番に熱田神宮にお参りし、宮の渡し公園を見てから国道1号線へ。(以下略)
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10年前は熱田神宮に行きました。
さて、前回は国道1号線を歩きましたが、もう国道1号線をひたすら歩くのはこりごり。
今回はどうしたか、を書く前に…
出発前に、宮の渡し公園の道を隔てた向かい側にある気になる建物を見に行きました。
熱田荘
案内板
「 熱田荘
木造・二階建・切妻造・桟瓦葺・平入り・正面庇付で、この建物は明治29年(1896)武藤兼次が建てた「魚半」という料亭であった。太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用されている。
建造は新しいが、近世の町家形式を継承しており、旧船着場丹羽家(伊勢久)とともに、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の有形文化財に指令されている
名古屋市教育委員会 」
ここに紹介されている脇本陣跡丹羽家は見に行きませんでした。
【七里の渡し問題】
この後、ガイドブックにない道を歩きました。
東海道五十三次ウォーカーにとっての一番の難題が、「七里の渡し」問題。
江戸時代は、宮(名古屋市熱田区)から桑名までは渡し船で行ったのですが、今はその船はありません。(たまにイベントとして復活することもあるのですが、レギュラーでは存在しません)
江戸時代の人が船で渡ったなら、現代人は電車で、という人もいます。
でも、やはり自分の足で歩きたい、と、国道1号線を歩いたり、比較的コースが似ている佐屋街道を歩いたり。
10年前の私は国道1号線を歩きました。
今回は皆さんがどうしているかさらにリサーチして、これだ!というコースを見つけました。
国道1号線よりさらに海に近いコース、東海通(とうかいどおり)を歩く。
途中、弥富からは国道1号線に合流してしまいますが。
12時過ぎに宮の渡しに着き、午後は東海通を歩きました。
2度目の東海道16日目の5(東海通を行く)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/045958