紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

平塚宿

2度目の東海道3日目の2

3月24日(日)の2

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【馬入橋と一里塚跡】


8:29 平塚市に入りました。
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相模川を渡る馬入橋からは、富士山がきれいでした。
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相模川の河口付近を馬入川と昔は呼んでいたそうです。

馬入橋を渡りきってすぐ、

8:44 馬入一里塚跡。
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ところで、お江戸日本橋の5番は、馬入川、平塚、大磯、小田原が歌われています。

5番
馬入りわたりて平塚の 女郎衆は
大磯小磯の客をひく
こちや 小田原評議で熱くなる


小田原評議で熱くなる、は、小田原評定を指しているのでしょうが、裏の意味を考えてしまいますね。

小田原にはかつて、遊郭があったそうですから。

小田原評定故事成語について、Wikipediaより

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故事成語としての小田原評定

小田原合戦時のこと、戦術をめぐる評議における論争で、老臣松田憲秀は籠城を主張したのに対し、北条氏康の四男である北条氏邦は箱根に出撃する野戦を主張して意見が分かれ、また降伏に際しても仲介ルートの選択で結論が出るまで意見が分裂したと言われている通説である。

この故事から、現在では小田原評定という言葉は「いつになっても結論の出ない会議や相談」という意味での比喩表現として使われる。

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【平塚小學校蹟の大樟樹】

9:06 平塚宿の江戸見付。
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わざわざ寄り道しなくても、道のすぐ脇に見える、旧平塚小學校の大樟。
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案内板
「平塚小学校では明示二十八年三月、校庭の一隅へ樟の種子を蒔いたところ、六月十五日大地をわって双葉が萌えでいた
(中略)
この地は明治十三年十一月崇善館を移築して平塚小学校と称してから昭和二十年七月の戦争罹災まで日本一を誇った平塚小学校(現在の崇善小学校)の旧地でここに学んだ児童たちはひとしくこの樟樹の傍で遊びたわむれた記憶をもっている。樹令八十余年記念すべき名木と言うべきだろう 」

2008年に撮った、この大樟がこちらの写真。
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当時の方が大樟に見えるのは、葉の繁りかたのせいかなあ。

10年前のブログより

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2008.9.30.

平塚宿江戸方見附跡を見て、平塚小學校蹟の大樟を見て(手塚治虫の「アリと巨人」を思い出しました)、高札場跡、本陣跡(神奈川銀行)、平塚宿西組問屋場跡を見て、ちょっと道を外れますが、平塚の塚を見に行きました。

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【平塚宿】


9:12 平塚宿の脇本陣
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9:14 平塚宿の高札場跡
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9:15 平塚宿の本陣跡
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【平塚の塚】

2008年に来た時は寄ったのですが、今回はパスした平塚の塚。

2008年に撮った写真を貼っておきます。
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この、平塚市が立てた説明板の内容は、こうです。

「 平塚の塚由来
江戸時代の天保十一年に幕府によって編さんされた『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代の孫、高見王の娘政子が東国へ向かう旅をした折、天安元年(八五七)二月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名が起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
                    平塚市」。

10年前のブログより

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平塚の塚は、平塚という地名の起源になった塚です。昔、桓武天皇三代孫、高望王の娘、政子が東国へ向かう旅をした折、天安元年(857年)、この地でなくなり、墓を築いたところ、上が平らな塚になったところから、「たいらづか」と呼んだのだそうです。

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【高麗山が見える旧道と京方見附】

東海道の旧道は、国道と分かれて斜め右に入ります。
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分岐のところにある消防団の倉庫のシャッターに、広重の高麗(こま)山の絵が描かれていました。
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そして、道の正面に高麗山。
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9:24 平塚宿の京方見付
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9:24 大磯町に入る。
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ここまで来ると、高麗山がさらに大きく見えます。
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【平成の一里塚と高麗山】

は、旅人の憩いの場になるようにと、最近作られた平成の一里塚です。
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広重の平塚宿の絵が描かれていました。

こちらは、広重の描いた高麗山と花水川。
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以前は、花水川というと、鼻水を連想して、なんでこんな名前なんだろうと思いましたが、桜の花びらが川面一面に美しい様を表した名前なんだそうで、そう聞くと美しい名前に聞こえてきます。

本日の3【大磯宿】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/14/164113