紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

おくのほそ道 尿前の関

 

案内板
「 古くからこの周辺は国境として柵が設けられ、天明2年(1782年)の『岩手関由来書』(鳴子・肝入遊佐甚之丞)には、『秀衡の世に陳ケ森の陣に多数詰居て(中略)柵のあとありありと残る』とある。尿前に番所が建てられたのは、仙台藩の法令『御境目御仕置』から推測するに寛文10年(1670年)ごろと考えられる。岩出山伊達家の職制に『尿前御関所役』とあり、伊達藩から尿前に役人が派遣されていた。芭蕉曽良がこの関を通ったのは、元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)のことである。
 芭蕉の『おくのほそ道』には、南部道はるかに見やりて岩手の里に泊まる 小黒崎水の小嶋を過てなるこの湯より尿(シト)前の関にかゝりて出羽の国に越むとす 此道旅人稀なる処なれば 関守にあやしめられて 漸にして関を越す(芭蕉自筆奥の細道岩波書店より)とあり、曽良随行日記には、『尿前関所有。断六ヶ敷(ことわりむつかしき)也 出手形ノ用意可有之(これあるべき)也』とある。
 当時の番所の規模は明らかではないが、幕末の屋敷は、東西44間、南北40間で、周囲は石垣の上に土塀をめぐらし、屋敷内には、長屋門、役宅、土蔵、板倉、酒蔵など建物10棟があった。長屋門は間口8間・奥行2間、役宅は間口17間・奥行11間、土蔵は間口3間・奥行4間で2棟、板倉は7間・3間というもので、他の番所に比べてもかなり大きな規模を持つものであった。
 尿前の関をようやく通された後、直後の薬師坂そして小深沢、大深沢の大難所を越えたにも関わらず、『よしなき山中』の封人の家で3日間も足止めさせられたこの峠越えは芭蕉曽良にとって苦難の日々であったろう。  」