紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

甚平坂

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案内板
「 甚平坂

木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道は・・・』(夜明け前)
中山道木曽路を過ぎて馬籠宿から中津川宿・大井宿に来ると、小高い丘をいくつも横切って進む道となり、起伏は多いが空は広く展望のよい道となり、恵那山や御嶽山を見続けて歩くことのできる道となる。そのため昔の旅人はこの道を『尾根の道・眺めよし』といっている。
ところがこの甚平坂は距離は短いが急な坂道で、長いこと旅人に嫌われていたが、明治になってようやく少しなだらかな坂道となった。
明治十三年六月、明治天皇が伊勢方面の視察のために中山道をお通りになることになった。そこでこの地の人たちは総出でこの坂の頂上を二メートルほど掘り下げて坂の傾斜を少しなだらかにした。それによって天皇のアラビア馬二頭だての馬車も無事に坂を越すことができた。

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甚平坂は根津甚平是行(根津次郎惟之)に由来する名称である。
根津甚平は鎌倉時代頼朝の家臣で信濃国根津の郷の城主であった。その頃大井に長興寺という寺があり、一体の観音仏をまつっていた。この観音さまは昔聖徳太子百済の香木に彫ったものといい、太子は法隆寺の夢殿に安置してまつっていたが、ある日突然空に舞い上がり東方に飛び、大井の里へ来た。里人はこれを寺に移したが、『総ての願いに御利益があるが特に子どもに恵まれない人が祈るとすぐに子宝が授かる』と評判になり、ひとびとはこの観音を『妊観音』といった。
根津甚平は数々の忠功があったが四〇歳になっても子どもがなかった。ある日この話を聞いた甚平はさっそく妻と共に大井の長興寺にやって来て妊観音に七夜の祈りを続けた。そして観音の霊光を得て長子根津小次郎惟清を授かることができた。
喜んだ甚平は長興寺の和尚と相談して『昔行基が創建したという長谷教寺を再興する』こととし、寺の名を稲荷山長国寺とした。そして甚平の守り本尊の運慶作の地蔵菩薩と夫人の聖観音等を寄進したという。
今長国寺には根津甚平の『長国寺殿根津是行居士』の位牌と乗馬に使用した馬の鞍と鐙が残っている。(長国寺縁起による) 」