車石案内板
案内板
「この車石案内板は
旧東海道をこよなく愛されている皆様に大津歴史博物館・車石研究会のご意見を参考に、お役に立てればと当家にて作成致しました。
昔この近辺には茶店や水車のある米屋が点在していました。
時代の経過で風景は変わりましたが歴史の一環として参考に為れば幸いです。
皆様の旅の安全をお祈り致します。 」
「旧東海道をお歩きの皆様へ
以前この地は近江の国藤尾村横木と言われました。その横木とは牛車や大八車が泥濘で通行に大変な苦労したので、堅い丈夫な木を横に引き詰め荷車の通行に役立っていたので、その名前がついたと言われています。が荷物の重さで直ぐに取り換えなくては成らず、以後花崗岩等の石に取り換えられ車石が出来ました。」
案内板
「 車石
大津と京都を結ぶ東海大学前は、米をはじめ多くに仏者を運ぶ道として利用されてきました。 江戸時代中期の安永8年(1778)には牛車だけでも年間15,834輛の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805)に1万両の工費で、大津八丁筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを車石と呼んでいます。」