紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き30日目の2(山科から京都三条大橋)

二度目の中山道30日目の2
2020年11月12日(木)の5


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【小関峠越えから山科に合流】

14:10 2009年に初めての東海道五十三次歩きの時立ち寄ったカフェがありました。
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14:10 車石の案内板

この案内板は、昨年見かけなかったので、新しいものと思います。
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案内板
「この車石案内板は
旧東海道をこよなく愛されている皆様に大津歴史博物館・車石研究会のご意見を参考に、お役に立てればと当家にて作成致しました。
昔この近辺には茶店や水車のある米屋が点在していました。
時代の経過で風景は変わりましたが歴史の一環として参考に為れば幸いです。
皆様の旅の安全をお祈り致します。 」

旧東海道をお歩きの皆様へ

以前この地は近江の国藤尾村横木と言われました。その横木とは牛車や大八車が泥濘で通行に大変な苦労したので、堅い丈夫な木を横に引き詰め荷車の通行に役立っていたので、その名前がついたと言われています。が荷物の重さで直ぐに取り換えなくては成らず、以後花崗岩等の石に取り換えられ車石が出来ました。」

案内板
「 車石

大津と京都を結ぶ東海大学前は、米をはじめ多くに仏者を運ぶ道として利用されてきました。 江戸時代中期の安永8年(1778)には牛車だけでも年間15,834輛の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805)に1万両の工費で、大津八丁筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを車石と呼んでいます。」

14:12 三井寺観音堂
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【徳林庵 諸羽神社】

14:20 徳林庵
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地元の人か、お寺の人か、竹箒で掃き掃除をしていました。

徳林庵についてなどは、昨年歩いた二度目の東海道のブログで書いたので、そのページのURLはこちら。

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/09/212222


14:22 諸羽(もろは)神社
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京都Naviより

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天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。貞観(じょうがん)四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。

 この後、正殿(せいでん)に応神天皇、脇(わき)殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。

 当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。

 神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。山科区四ノ宮中在寺町

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【もてなすくん】

14:24 もてなすくん

11年前、初めての東海道歩きで山科に来たとき、「もてなすくん」という紫の風船があちこちにぶらさがっていました。こちらは、11年前に撮った写真です。
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こちらは今回撮ったもてなすくんです。
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11年前のブログより

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2009.03.26.

京阪山科駅を過ぎた辺り、山科商店街に、写真の紫のビーチボール式のなす型ビニール風船があちこちにぶら下がっていました。

茄子と思われる色形、愛嬌のある顔、後ろ側には「まっせ YAMASHINA」の文字…

写真の、赤字に白十字の旗が掲げられた白亜の建物は、スイスケーキの店だそうですが、そこにもポツポツと紫の物が…

山科って、茄子の産地だっけ?

調べてみたら、商店街のマスコットで「もてなす君」。昔は山科全般で茄子が作られていて、鰊茄子に使われる煮物に最適な茄子なんだそうで、山科茄子の名は全国に知れわたりましたが、各地で山科茄子が作られるようになり、今では山科ではほとんど作られていませんが、山科茄子という名前だけ残っています。

でも、なぜ「まっせ YAMASHINA」なのか?

ネットで調べたけれど、地元商店街の人達も「まっせ」の由来を知らないそうです。

「もてなしまっせ」「やるときゃ、やりまっせ」かな?

このもてなす君、人気があって、盗難もかなりされたとか。

町起こし、頑張りまっせ、かな?

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それが、昨年二度目の東海道で山科に来たとき、もてなすくんはほぼなくなっていました。
ところが今回来てみたら、また「もてなすくん」がたくさんぶら下がっている上、マスクをしたもてなすくんもいました。
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すると、「マスクをしているもてなすくんをさがせ!」というイベントをやっていました。全部で6個あるそうで、私は5個は見つけたので、もっと早くこのイベントを知っていれば、ちゃんと探したのにな。

11年前に写真を撮った店は健在でした。スイス菓子「ローヌ」という店です。
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昔風の町並み
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14:38 東海道本線のガードを潜りました。
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【日ノ岡峠】

14:47 日ノ岡峠への道
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初めて東海道を歩いたとき、東海道の最後の最後にこんな峠が立ちはだかっているなんて!と驚きました。考えてみると、京都は盆地なので、四方八方が山なんですよね。京都への最後の道は峠で当たり前ってこと、考えていませんでした。

当時は最後の難関、日ノ岡峠はきつい上り坂だと思いましたが、東海道を二回、中山道を二回、数々の坂道を上ってきて四回目の日ノ岡峠は、それほど大した峠ではありませんでした。

14:52 日ノ岡峠への上り坂に喘ぐ旅人の喉を潤してきた亀の水不動尊
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昨年来たときは他に誰もいませんでしたが、今日はお線香を焚いている先客の女性お二人がいらっしゃいました。
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お二人の後ろから手を合わせて、すぐに出発しました。

この先、たくさんの地蔵堂があり、去年来たときは写真を撮らなかったので、今回は全部撮りました。
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15:03 府道143号線に合流。
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【車石広場】

15:04 車石広場
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車石モニュメント説明板

「平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通りの四車線化及び歩道の整備事業を実施した。
本事業の完成を記念して、三条通りの舗石として敷設されてきた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。

平成十六年一月 京都市


【粟田口刑場跡 蹴上浄水場

15:07 粟田口刑場跡
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案内板
「 粟田口刑場跡

この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠から続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。
元文元(1736)年には五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間には、車道(くるまみち)に車石(くるまいし)舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶応3(1867)年には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。
また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられいました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者よって、何基もの供養塔が建てられました。明治5(1872)年には、この刑場後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。
しかし、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や 現代にいたる開発によって供養塔や、経王塔が破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8〜10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6〜8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁璧には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。

九条峠町町内会・京都市

昨年、二度目の東海道を歩いたときの写真では、木の葉が案内板にかかって読めない箇所が三ヶ所有ったのですが、今回は全部読めました。


15:11 蹴上浄水場
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15:23 粟田神社
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トイレへ行きたかったのですが、途中のローソンは二軒ともコロナ禍のため、トイレが使用禁止。

本当は一気に三条大橋に雪崩れ込みたかったのですが、トイレにどうしても行きたくて、マクドナルドで休憩して、マックフルーリーを食べました。
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15:47 高山彦九郎皇居望拝之像
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案内板
高山彦九郎 皇居望拝之像

江戸時代、ここ三条大橋東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。
今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747年~1793年)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
18歳の時以来、前後5回、上洛したが、京都に出入する折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
その姿は
大御門(おおみかど)その方(かた)向きて橋の上に
頂根(うなね)突きけむ真心たふと
                          橘(たちばな) 曙覧(あけみ)
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士
気概は高山彦九郎
京の三条の橋の上
遥かに皇居をネ伏し拝み
落つる涙は鴨の水アサノサ
と謡いつがれた。

京都市観光部振興課
高山彦九郎大人顕彰会寄贈 」


15:50 三条大橋を渡りました。
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四回目にして、泣きませんでした。でも、いつもと同じく、

「ありがとう、ありがとう」

と思いました。


15:52 弥次喜多
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何度も見ているのに、どっちが弥次さんでどっちが喜多さんなのか分からないのですが、三度笠を被らないで手に持っている方の像が、誰が巻いたか黒いマフラーをマスクみたいに口元に巻いていました。
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この後ホテルに入り、荷物を置いてから散歩がてら、お土産を買いに行きました。
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醒ヶ井駅から五箇荘駅までの歩数と、大津駅から三条大橋までの歩数の合計は、31,251歩 19.06km

その後の、四条河原町までの往復で、1日の合計歩数は、36,100歩 22.02km

二度目の中山道、遂に完歩しました。

私におめでとう!私に乾杯!

でも、たくさんの人々に、ありがとう!

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二度目の中山道六十九次歩き目次1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947

絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003