紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

吉身(吉水郷)

吉身(吉水郷)

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案内板
「 吉身(吉水郷)

この辺り一帯を『吉身』という。 古くは『吉水郷』と称し、ゆたかな森林ときれいな『水』に恵まれた天下の景勝地であった。 元暦元年(一一八四)九月に発表された『近江国注進風土記』には、当時の近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。 南側は『都賀山』の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な『益須寺』があった。 そしてこの街道は『中山道』である。 古えの『東山道』にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。 鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、江戸時代に江戸の日本橋から数えて六十七番目の宿場に指定されたとき、『吉身』はその西の『今宿』とともに守山本宿の『加宿』として宿場の役割を分担した。 ここは吉身加宿の『高札』が立っていた所である。本宿と加宿の境には川が流されてその標とした。 流れるこの川を「伊勢戸川(伊勢殿川)」という。野洲川の伏流と湧水を戴く「宮城川」の支流として水量多く冷たく清らかで、川の水は旅人の飲料水としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。 里中にしては珍しく流れが早く周囲の環境に恵まれて多種類のさかなたちを育み、同時に『ゲンジボタル』の発生の川としても親しまれてきた。 昭和三十年代後半以降約四十年の水質悪化の時代を経て、近年吉身の川が再び往時の清らかさを取り戻しはじめた。 その証としてゲンジボタルがその佳麗な姿を見せてきたことを啓示とし、地元自治会が『川をいつもきれいに』する動きを始めた。 時あたかも守山市が市制三十周年を迎え、その記念事業としてあらためて川の環境を整え、いつもきれいな水が流れる川を維持しつつ、『ホタルが住みよい吉身』のまちづ<りを目ざしている。  
平成十三年(二○○一)早春 
吉身中町自治会 
『水とホタル推進委員会』 」