岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の東海道五十三次歩き15日目の2(岡崎宿)

2度目の東海道15日目の2

5月26日(水)の2

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【いよいよ岡崎二十七曲】

8:19 鐘楼門が素敵な法光寺
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8:22 常夜燈
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8:24 岡崎二十七曲り碑は、碑の前に立つ門
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10年前に来たときは、結局二十七全部は確認できませんでした。今回は出来るかな?

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絵手紙に描いた門を潜ると、黒い石碑があります。
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石碑文
岡崎城下二十七曲り
 
 岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。
 二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長14年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。
二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。 」

10年前に比べ、標識がオレンジになって、分かりやすくなりました。

奮闘した10年前のブログ

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岡崎に入ると、二十七曲り(絵手紙はニ十七曲りの入り口)があり、案内の柱を一生懸命探しながら歩きました。

ただし、案内の柱はあったりなかったり。

まず最初に、二十七曲がりの案内の大きな黒っぽい石碑。

そこから、まず1本は交差点を曲がらず、次で右に行き、少し先の病院手前(病院はその角からは見えないので、国道に出てしまう手前で左に曲がって少し行くと、右奥に病院を確認出来ます)を左に曲がり、そこから二つ目を右に。国道手前を左。

この辺りから、二十七曲がりの案内の木の標識(てっぺんに草鞋がついています)や、古い石標に出会えるので、それを頼りに、地図も見ながら進みました。

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10年前の病院は今は「岡崎げんき館」になっています、と書こうと思ったら、あら?「岡崎げんき館」は、2008年3月1日オープンと書いてある。

wikipediaより

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 「岡崎げんき館」は、岡崎市若宮町にある公共の健康増進施設。屋内プールとトレーニングジムを備え、建物の中には岡崎市保健所もあります。 2008年3月1日にオープン。旧市立岡崎病院跡地に「健やかに集い、にぎわいを創出する核として建てられた。

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つまり、私が岡崎に来た10年前も既に病院ではなく、「岡崎げんき館」になっていたのです。

大きな建物を見て、勝手に病院、と思ったのでしょう。

ただし、現在、「岡崎げんき館」前(若宮2丁目交差点角)には、「岡崎城東入口」の石碑があり、そのモニュメントは10年前にはなかったので、それで、建物自体が変わった、と勘違いしたのだと思います。

モニュメントの横に、最初の「い」のオレンジの道標があります。
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最初の「い 」。「岡崎げんき館」前を左に折れます。

8:31 延命地蔵
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8:31 根石観音堂
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案内板
「 根石寺(旧根石観音堂)の由来

当寺本尊聖観世音菩薩像は行基菩薩の作といわれる。
和銅元年(七〇八)天下に悪病が流行し世の人々の苦しみは一方でなかった。
時の天皇四十三代元明天皇も大変心を悩まされ直ちに行基法師を召され悪疫を絶やしてほしいと念願された。そこで法師は自ら六体の観音像を彫りその内の二体を根石の森に勧請(かんじょう)し十七日間祈祷を続けられたところ果たして霊験あらわれ、はやり病も治まり世人の喜びは大変なものであった。
又岡崎三郎信康公も天正元年(一五七三)の初陣の折この観音像を祈願し軍功を上げて以来開運の守り本尊としてもあがめられこの二体の観音像をまちの人たちが協力してここに堂宇を建立し檀上の厨子に安置したのである。 」

8:33 「ろ」の道標
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8:38 「は」の道標
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8:39 秋葉山常夜燈
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案内板に詳しく書いてありますが、寛政二年(1790)に建立されたもの。

かなりボロボロで、鞘堂に入れられています。

案内板

「 常夜灯の由緒

この常夜燈(仏式)は旧東海道岡崎の宿両町の街角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として今より182年前寛政二庚戌年(西暦1790)に建てられたものであります。その後昭和20年7月20日未明の空襲で災禍にあいましたが昭和47年10月22日までその原型を留めておりました。
 追日の痛みもひどく危険になりましたので取り壊しその一部「宝珠」を残しこれを安置保存したものであります。
 岡崎では最も古い由緒ある常夜燈で目下重要な文化財として惜しまれております。

 昭和47年10月  
 両町総代 神谷順治  
 施工者 宮石一一 」


【宝珠を残すのみだから、惜しまれる】

岡崎では最も古い由緒ある文化財として「惜しまれている」、という表現は何でしょう。

「親しまれている」の間違いではないか、という人もいます。

でも、本来の形は昭和47年10月22までで、崩落か倒壊かの危険があったため、「宝珠」を残して取り壊した、ということですので、そして、その宝珠さえ、このボロボロ。でも、宝珠がこの大きさということは、かなり大きかったんでしょうね。残念だなあ、と私も思うし、「惜しまれる」でいいのではないかな。

8:40 「に」の道標
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【10年前の道標での思い出】

この道標の場所で、10年前、こんなことがありました。

10年前のブログ

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広い通り(伝馬通り)で、「これより伝馬町一丁目まで660m↑」という木の柱の写真を撮っていたら、その柱の近くでバンを停めて荷物の積み降ろしをしていた中年男性に、「何を撮っているの?」と聞かれました。

二十七曲がりの標識を撮っていた、と答えると、わざわざ木の柱を見に行って、頭に草鞋が付いた柱に初めて気づいたらしく、驚いていました。

荷物の積み降ろしをしていたということは、仕事で来ただけで地元の人ではないのか、地元の人なのに、最近出来た標識に気付かなかったのか…

「じゃあ、曲がるところが27あるの?」と聞かれましたが、私にも、本当に27あるのか分からない。

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備前屋】

和菓子の備前
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この備前屋で、10年前はお菓子を買いました。

10年前のブログ

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今、声を掛けられた所が伝馬通り。

ここを暫くまっすぐ行くと、伝馬町交差点にある和菓子舗、備前屋で岡崎名物のあわ雪を買いました。

あわ雪は塊になっていて切って食べます。これは帰ってから食べるとして…

今、ここで少し甘いものを食べたい、と思い、別に「はなびら餅」を1個だけ買って、店内の無料お茶サービスの機械でお茶を入れて休憩。

はなびら餅…昔、祖母がお初釜で用意していた、噛むと味噌餡が口中に広がる、あの「はなびら餅」ではない…。かなりがっかりしました。八丁味噌の町だから、白味噌のお菓子は不得手なのかな。私のチョイスが悪かったんでしょう。ねりきりにしておけばよかったかな。

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伝馬通りには、東海道に関する小さな石像と、その案内板がたくさんありました。

全部は撮り切れなかったので、一部ご紹介します。

8:48 お茶壺道中
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案内板

「 お茶壺道中

寛永9年(1632)に宇治茶を将軍に献上することに始まったお茶壷道中。家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせた。宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壷奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていた。行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。 」
 

助郷と肉屋と飯盛女】

伝馬通りの続きです。

助郷
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案内板
助郷

大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内では不足する場合もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立てする人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄7年(1694)に正式に実施されている。人馬を提供するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。 」

永田屋精肉店
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老舗肉屋さんで、コロッケが美味しい、と、おかざえもん(ご当地ゆるキャラ)が言っていました。

飯盛女
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案内板
「 飯盛女

飯盛女(飯売女と表すこともある)は旅篭屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。正保・慶安の頃(1644~51)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅篭間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛清のため飯盛女の人数制限を行ったが、効果はなかった。以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。 」


【塩座と御馳走屋敷と籠田惣門】


こちらも伝馬通りの続きです。

塩座
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案内板
「 塩座

塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。矢作川を上る塩船は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もあり、しばしばトラブルもあった。上がってきた塩は審査の後、馬に乗せかえられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶座、魚座、煙草株などがあるが、商いをするものは座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。 」

御馳走屋敷
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案内板
「 御馳走屋敷

現在の岡崎信用金庫資料館の南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政九年の『家順間口書』によると間口が十五間以上ある立派なものであった。御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壺、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて低調にあいさつしたという。 」


朝鮮通信使 wikipediaより

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朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。

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籠田惣門
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案内板
「 籠田惣門

 田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北に曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく。岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。 」

8:53 西本陣前角
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伝馬通り660メートルも終わりです。

「ほ」と「へ」など、道標もありましたが、割愛します。

明治の道標
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何と書いてあるかの説明がこちらです。
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左側面 「東京みち」

向こう側 「西京いせ道」

右側面 「きらみち」(吉良道)

明治の道標だから、江戸じゃなくて東京なんですね。


2度目の東海道15日目の3(岡崎宿2)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/26/054850