紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

一本杉の仇討ち碑

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一本杉の仇討ち碑

案内板
浦和区文化の小径

一本杉の仇討ち跡

〜幕末の中山道に伝わる大事件〜

この地は、中山道界隈で『一本杉の仇討ち』として語り継がれた事件のあった場所です。
この事件は、万延元年(1860年)常陸国鹿島津の宮沖の船中で、水戸藩藩士宮本佐一郎と讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ斬り合いとなり、宮本佐一郎が命を落としたことに端を発します。
河西は、この斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった大老井伊直弼桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けました。そのため、居所が宮本佐一郎の息子である宮本鹿太郎の知るところとなりました。
鹿太郎は4年後の文久4年1月23日(1864年3月1日)に、西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の3人の後見人と共に、仏門に入ろうと不動岡総願時から江戸に向かう河西を、針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごと父の仇を討ちました。
その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方へ引き取られ、1月27日浦和宿にて幕府の取り調べが行われた後、小石川の水戸藩邸へ引き渡されました。事件は幕府最後の仇討ちとして、刷り物・はやり歌などで中山道界隈に広まり語り継がれていきました。
かつて、一本杉は樹高約18m、周囲約3mといわれ、松並木の中で一際ひいでた大樹でした。また河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られましたが、現在は北浦和にある廓信寺で供養されています。

平成24年
浦和区文化の小径づくり推進委員会」