6月18日(火)の3
【月輪村】
弁天池から18分歩くと左に道標。「名勝月輪大池南約一粁」
「粁」はキロメートル。
そのすぐ先に月輪コミュニティセンターがあり、玄関前に月輪の地名由来の説明標がありました。
「 月輪
月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿からなづけられたとも、月輪殿九条兼実の庄園内にあったともいわれます。元来は原野でしたが、江戸時代にはいって開墾がすすめられ、延宝四年(一六七六)大萱(おおがや)新田となり、明治七年(一八七四)月輪村と改称されました。 」
さらに2分歩くと月輪寺。
「新田開発発祥の地碑」と、「明治天皇御東遷御輦之所」碑があります。
輦(れん)は、手で担ぐ乗り物。蓮台とか輿でしょうか。
【ちりんさんと大場の桜】
月輪寺から交差点を渡ると、左側に立場跡。
そこから15分ほど歩くと、左側に「大江の千里」(ちりんさん)の看板
案内板
「 大江の千里(ちりんさん)
大江の地を荘園として持っていたと伝えられる『大江の千里』は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして、また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人である。
その奥方がこの地に住まいしていた。
村人はその跡地に野上神社(現在は御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだといわれている。
第二十三首
『月見れば千々にものこそ悲しけれ
我が身ひとつの秋にあらねど』
瀬田学区自治連・勢多歩こう会 」
歌人と言えば宮廷に出入りする、インテリ、ハイソで庶民とはかけ離れていたのかと思いきや、地元の人々にちりんさん、と呼び親しまれていた、というのは意外ですね。
そこから16分。大場の桜がありました。
案内板
「 この山桜は、樹齢約二百年の古木です。
旧東海道筋にあり毎年、美しい花を咲かせています。
旧東海道と芦浦街道との分岐点付近にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。
この桜は、江戸時代には参勤交代で、みやびやかな列をなして、毛槍を振り振り共奴を連れた大名行列が、仰々しく西に東に行きかっていたのを見つめていたことでしょう。
瀬田学区自治連合会
勢多歩こう会
瀬田文化振興会 」
【檜山神社と建部神社】
大場の桜から9分。檜山神社。
古色蒼然、鬱蒼とした鳥居の辺りの森。いいですねえ。
旧東海道が大通りから離れて、逆「く」の字に別れる分岐。
石善という石屋さんがあります。
道はまた大通りに戻り、瀬田の唐橋まで一直線の道。
さっきこの道に出たとき、建部神社の鳥居が気になりましたが、瀬田の唐橋に向かっていたら、左に広いスペースがあって、建部神社の提灯がかかっていました。
さらに、建部神社の広告看板がドーンッと。
初詣などの時の、建部神社の臨時駐車場でしょうか。
建部神社は日本武尊を祀る、武運長久を祈願する神社だそうです。
【瀬田の唐橋と俵藤太】
瀬田の唐橋の入口に着いたのが10:11。
写真は、ちょうど自転車のお兄さんが通ってしっかり写ってしまいました。千鳥の大悟に似てました。
10年前のブログ
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やがて瀬田の唐橋。
美しい橋で、なんだか感動してしまいました。
大海人皇子が壬申の乱で大友皇子を討った場所であり、俵藤太の百足退治伝説の場所でもあります。
そして、琵琶湖に出たことにも感動。
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瀬田の唐橋は中洲があり、そこに掲げられていた絵看板
の説明がこちら。
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俵藤太秀郷むかで退治
豪傑の誉れ高い秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。何事かと話を聞けば、三上山に7回り半も巻ついた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたという。秀郷はこころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえた爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく二千年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮らしや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。
大津市古都指定都市制定記念
平成15年10月、大津市は全国で10番目となる古都保存法に基づく「古都」に指定されました。
平成17年3月改装
原画作成 成安造形大学 竹内堅二
大津ロータリークラブ
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私が聞いた話を付け加えると、秀郷の射た矢は、一本目、二本目とも大ムカデに当たっていながらも跳ね返され、三本目の矢を舐めて唾を付けてから射たところ、見事大ムカデに命中したそうです。
思うに、二千年も琵琶湖や近江国を守ってきた爺さんは神様だと思うし、六十六メートルの大蛇に変身することも出来るのに、大ムカデにはかなわなかった、というのは興味深い話で、何か民俗学的、神話的意味があるのかもしれないし、そもそも神様にも得手不得手があるということかな。だから、神社によって願う内容が違ったりするのかな。
あと、竜宮に行っても、俵藤太は玉手箱のトラップにはかからなかったんだ。
そもそも浦島太郎はお礼に竜宮に招かれたのに、何故、あんな仕打ちに遭わねばならなかったのかの方が不思議。
漫画などに描かれている説で、浦島は酒癖が悪く、早く帰ってほしいのに居座ったから、なんてことがあったのかもしれないし、よほど乙姫様に気に入られて、いつまでもここにいて、と言われたのに帰りたがったから、あんな目にあってしまったのか。
大ムカデの遺体が残らず消え去ったのは、そもそも実体のない、集団心理みたいなものだったのか。
いろいろ興味深い話です。
【石山商店街】
瀬田の唐橋から5分ほどで、鳥居川交差点。
ここを右折して、石山商店街を歩きます。
今まで人通りの少ない道を歩いてきたので、石山商店街の地元の人の人々の会話が、ああ、関西に来たんだ、と、妙に落ち着きます。
鳥居川交差点を曲がってすぐぐらいに、写真の太田瓦店。気になって写真に撮らせていただきました。
石山商店街では、写真のような、昔を偲ばせる古い家もよく見かけます。
今日は昼間で、地元の人々の行き来も少な目でしたが、10年前の東海道のときも、9年前の中山道の時も夕刻だったので、マーケットでコロッケを買う、そんなざわめきの街のイメージでした。
そろそろコーヒー飲んで休憩、といきたいのですが、見かけた喫茶店はなんだかディープ(常連さんしか入りづらい薄暗い感じ)で、結局石山商店街は通過。
【目標物が少ない】
石山商店街までは、古くて素敵な建物が残っていたり、楽しく歩けるのですが、京阪線の松原踏切を渡った後あたりから、目標物が減り、さらに疲れも出て来て、長く辛く感じ始めます。
松原踏切を渡ったら、道の左側を絶対歩きたい。
私は右側を歩いていたら、段差が激しく、時間もかかるし、たくさん歩いてきた足に優しくない。
ちょうど、萩の玉川で見かけた、本日見かけた東海道ウォーカー二人目を道の左側に発見したのですが、あちらは段差がなく、段差が終わった頃の左右のかかる時間差が、あの東海道ウォーカーのおかげではっきりしました。
ちなみに、今日は三人目の東海道ウォーカーも見つけました。月輪のコミュニティセンターあたりです。あの人、天竜川を渡る前辺りで一度見かけた人かもしれない。だとすると、あの人も一気にはなかなか歩けなくて、時々歩いている人なんだろうな。
いずれにせよ、今日見かけた三人の方は、今日中に京都にゴールでしょう、きっと。
私みたいに贅沢に、最終日とその前日を少し楽にしたいからと、一日増やした人なんて、そうはいますまい。
しかし、最終日に草津から京都はかなりきついです。
距離にすると、たかだか26.8kmですが、何せ、草津から大津の15.1kmが、長い、特に石山商店街過ぎてからの、目標物が少なくなった辺りからが辛い。
それに、大津から京都は近い、たった10キロちょっと、と思っていると、京都は盆地ですからね、回りは山なんです。峠を越えなければ京都には入れない。
この辺りを歩いているとき、つくづく、今日を一日増やしてよかった、と思いました。
10年前、大学生で若いし、夏休みで一気に歩いた長男は日本橋から京都三条大橋まで、14日で歩きました。彼はお金もないから、有料の見学は一切しなかったことも、早かった要素かもしれません。
私は職場の都合などで半日しか歩けなかったり、夜用事があるから早く帰らねばならなかったり、一旦帰れば交通機関にかかる時間もばかにならない。
10年前の私は、本陣や資料館の見学など、結構立ち寄りも多かったな。
それも合わせて、年齢と男女差もあって、28日かかりました。
今回は、もう少しかかった日数を減らしたかったので、見学は少なくし、行き帰りも夜行バスなどで時間と経費節減をはかりました。
そして、今の計算で行くと、21日でゴールの予定でしたが、今日一日を増やしたため、22日でゴールの予定です。
ただし、天候その他のアクシデントがあるやもしれませんが。
日本橋から121里目の粟津一里塚、今回も(毎回)発見出来ていません。
なので、ガイド本にも出ていませんが、「農業試験発祥の地」碑の写真を撮っておきました。これが10:37。
このあたりは、今でも何かの研究所らしいです。
目標物が少ないながらも、信号、枡形、踏切などを見つけながら進んでいきました。
【立ち寄ったカフェ】
11:00を過ぎて、休みたい、と思ったところにカフェがあったので、入りました。
入ってすぐ気づきました。ここは、障がい者が店員さんのカフェなんだ。
私が住んでいる市では、市役所内と、市立体育館内にそういうカフェがありますが、コーヒーなど、けして安くありません。
この店は、コーヒーも紅茶も、200円です。
私としては助かりますが、もっと取ってもいいのに。
まだ出来たばかりなのかな。接客についてなど、教育中の感じでした。
帰りがけに、そこの責任者なのか、みんなのお母さん、みたいな方に、
「ここは、どなたかに聞いていらしてくださったんですか?」
と聞かれました。
「いえ、ちょうど休みたいなあ、と思っていたところにあったので。」
店内は明るくてきれいだし、トイレもきれいだし、コーヒーも美味しかった。
草津から大津、長いので、たくさんの東海道ウォーカーさんに立ち寄ってほしいなあ。
「Cafe ぽっとらっく」です。
【膳所六門のひとつ、とべんがら連子】
写真の大養寺(11:21)の山門は、
大養寺の掲示板に書いてあった説明によりますと、
「当寺の山門は、高禄又は由緒ある武家屋敷等の門で、膳所の六門(長屋門)の一つです。」
この近くには、紅殻(べんがら)格子の家や、
連子格子の家なども所々で見られます。
【お祝いの神社】
さっきの膳所六門のひとつの大養寺から18分で、枡形。
そのすぐ先、左側に石坐神社。「いわい」神社と読み、お祝いの神社だそうです。
さらに5分ほど歩くと、右側、カーブのところに、「膳所城北総門跡」碑。
【義仲寺】
本日のハイライト、義仲寺(ぎちゅうじ)到着は11:52。
10年前のブログ
「 木曽義仲の墓や芭蕉の句碑のある義仲寺は是非立ち寄りたかったのですが、夕刻で既に閉門していました。」
そして、9年前の中山道の時は、満を持して義仲寺に立ち寄ったし、かなり時間をかけて見学したはずなのですが、ほとんど覚えていない!
山門入ってすぐ、
「えっ!拝観料とるの?」
と、驚きましたからね。300円なり。
特筆すべきは、芭蕉の花。初めて見ました。
義仲寺には松尾芭蕉の句碑が四基あります。
一基目の碑文は「旅に病で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」
芭蕉の辞世の句と言われていますが、病中の句です。でも、旅を愛し、旅を住みかとしていた芭蕉の辞世の句にふさわしいですよね。
二基目の碑文は「行春(ゆくはる)をあふみの人とおしみける 芭蕉桃青」
三基目の碑文は「古池や蛙飛びこむ水の音 翁」
四基目の碑文は「三日月の影を延すな蕎麦の花 はせを」
この四基目の碑は発見出来ませんでした。
巴塚。
木曽義仲の墓。
松尾芭蕉の墓。
境内の朝日堂の濡れ縁に、記念記帳ノートがありました。
皆さん、印象的なことを書いていますね。
「木曽でペンションを営んでいて、いつか義仲の墓参りをしたいとずっと思っていて、やっと来ることができました。」
「今度、巴御前を演じさせていただくことになり、是非お詣りをしたくてやっと参りました。」
女優さん?
私は、即興で
「旅先で芭蕉と出会ふ梅雨晴れ間」
と書いてきました。
でも、今回の旅で出会ったのは、芭蕉翁だけではなく親鸞聖人も、だったので、絵手紙には
にしました。
私は小学校1年生の三学期から3年生の二学期まで長野県の小学校に通っていましたが、長野県のこどもたちが校歌より先に覚えるのが「信濃の国」の歌。
その中の5番(全部で6番まであります)の歌詞に、旭将軍義仲が出てくるため、なんだか親しみを感じていました。
それから、NHKの大河ドラマで、林与一が演じた木曽義仲が、最期がなんだか騙された悲運の人、みたいに描かれていて、だから、木曽義仲、とっても好きです。
実際には、栄華を我が物みたいに奢り高ぶり、京都から美女をたくさん信州に連れていったため、木曽谷や伊那谷には美女が多い、などとも言われていますが。
そんな、林与一の義仲っていつの作品なのか。
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『新・平家物語』(しんへいけものがたり)は、1972年(昭和47年)1月2日から12月24日まで放送されたNHK大河ドラマの第10作目である。 吉川英治の大河小説『新・平家物語』を原作に、平家一門の栄華とその滅亡を描く一大叙事詩。大河ドラマ第10作目にふさわしい豪華なキャストとセットが話題になった。
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そんな昔に、豪華な「新・平家物語」が繰り広げられたのも、今や歴史。昔の栄華ですね。
それにしても、大阪で亡くなった芭蕉が、何故近江の国の義仲寺に葬られたんでしょうね。
芭蕉の遺言で、木曽殿の隣に、ということだったらしいのですが、何故、故郷の伊賀上野ではなく、近江の国なんでしょうね。
【大津のランチは鯖定食】
典型的な連子格子の家
2階が蔵みたいになっている。玄関の横に、テーブルみたいなものが立て掛けられていて、これを下ろすと縁台になります。
今日の終点、京町通りに着いたのは12:28
その近くに、夜は居酒屋、昼は昼定食の店、「とらきち」があったので、ここで御昼御飯。
サバか豚カツが選べて、私は鯖定食にしました。750円。
大津駅13:04発 姫路行き新快速に乗りました。
草津から大津までの歩数 24,569歩。14.98km。
2度目の東海道21日目の後半の1(大津宿 大津駅から大津と京都の境まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/09/183923
2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738
2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/165621
2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/175026
東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457
東海道五十三次の絵手紙後半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/065405