紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

親鸞上人念佛塚の旧跡


案内板
「  親鸞上人念佛塚の旧跡

 去る程に此の前方の低地が昔時、甲斐沼池としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其池の總面積は最大時は三丁歩余り、葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。
鎌倉時代、西暦一二二五年代、浄土眞宗の開祖親鸞上人が甲洲等々力の積合、萬福寺に参詣の帰路、此の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立寄りしところ葦ヶ池にまつわる毒蛇済度の祈願をこんせいされる。
章ヶ窪の地頭小保左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、 たまたま京より来りし半僧修行僧晋挺 (しんてい) 奈良 興福寺 法性宗の高僧行基が造った阿彌海の阿弥陀堂にこもりて断食修行中、その晋挺に心よせしが僧業。身には女性のその意を深く 説得され其の意の通せざるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果しときく。
地頭のこん願に依り上人供養、三七二十一日間小石に六字の名号を墨書し、 池中に投入するや「よし」の霊は成仏済度され池中に異様な轟き有りて 「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中東南の空高く消え去りて遠く、 伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。 今も手石浜の阿彌陀 「くつ」 には、参詣の人の絶え間なしときく。

 池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源とも伝へられる
葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄は後に、親鸞上人の徳を慕って出家僧行を積僧唯念と稱し、真木英福寺一世開山となる。
又、此の時期、大布乃名号で知られる龍泉寺 寺の下の作太郎も上人の徳を慕って僧業し永讚坊楽信として、真木福正寺三世住職となる。両寺共、教行信證、浄土真宗なり。
    
        合掌