案内板
「 日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。