紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

享保13年来日の象の話

享保13年来日の象の話
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享保13(1728)年6月に牡と牝と二頭の象が長崎に来日。残念なことに、牝の象は9月に死んでしまったそうです。翌享保14(1729)年3月、牡の象は江戸に向かって出発。大阪、京都を経て、5月に江戸幕府に献上されました。

大阪、京都の後、

wikipediaより

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象は4月29日に清浄華院を出発し、近江国草津宿までは東海道を、草津からは中山道に、さらに垂井宿からは美濃路に入り、名古屋へ向かった。

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ということは、象は加納宿を通っていないようですね。

wikipediaより

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名古屋からは吉田藩領を経て三河国岡崎からは再び東海道を東に進み、駿河国では大井川を徒歩で渡った。大井川では川の激しい流れを弱めるため、人足たちが肩を組み、象の渡る上流に幾重にも並んだ。富士川の渡河には、川に船を横一列に並べて繋ぎ、その上に板を渡して臨時の橋をつくる、いわゆる「船橋」の設営が採用された。係留杭10本、船に敷く松材の板75枚が準備され、柱打ち込みのための穴掘りや麻網の打ち立て、川中への
竿入れなど、合計1,900人の人足が動員された。5月17日、箱根の峠を越えるとき、象は茨ヶ平で立ち止まってしまい、4人が押しても動かず、口から泡を出して苦しそうな気配を示した。気付け薬を飲ませて途中で何度も休ませながら、だましだまし峠を越え、上りよりも苦手な急な下り坂を歩いて箱根宿に着いたが、倒れこんでしまった。象は5月20日まで計4泊を病気療養のため箱根ですごした。その間、箱根では野犬狩りがおこなわれた。また、なかなか放屁しない象の腹を、象使いたちは丸太を用いて懸命にマッサージして放屁をうながしている。5月25日の六郷川(現、多摩川)の渡河は、貞享5年(1688年)の大洪水で橋が流失して以降、橋が建設されなかったので、船橋での渡河となった。船橋をつくったのは、長い 旅程のうち富士川と六郷川だけであった]。船橋は象の通行後は解体撤去された。六郷川では7日間でのべ805人の人足を要したと記録されている。

象は、道中各地でブームを巻き起こし、象にまつわるさまざまな書籍や瓦版、版画、双六などが現れ、江戸に着いてからも、象をモチーフとする置物や刀剣、刀の鍔、印籠などの商品がつくられて人気を呼んだ。

江戸への到着は享保14年5月25日のことであった。それに先立って江戸でも触が出され、くれぐれも不作法のないよう、また象に菓子などを投げ与えることは固く禁ずることが申しわたされた。象は、到着にあたって江戸市民の熱狂的な歓迎を受け、市中往来を練り歩いたのち江戸城外の浜御殿に収容された。浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園) 、もともとは徳川将軍家の鷹狩の場であったが、そこに甲府宰相松平綱重の別邸が建てられ、甲府藩主の徳川綱豊が第6代将軍徳川家宣として江戸城に入ったのち、これを改めて御殿としたものである。

(中略)

象の健康状態は不安定で性格もすさみ、寛保元年(1741年)には象が気を荒くして象使いを叩き殺すという深刻な事件が起こった。この事件を機に、象は中野村(現、東京都中野区)の百姓源助と柏木村の弥兵衛に払い下げられた。結局、浜御殿で飼育されたのは約12年におよんだことになる。象は、餡のない饅頭をことのほか好んだ。

象を引き取ることとなった源助は中野の成願寺のそばに象厩(きさや、象小屋)を建てて(寛保元年2月完成)、4月27日に引き渡された。幕府は、象小屋建設の費用397両を負担した。また、象使い5名を源助・弥兵衛のもとに差し向けて飼育法を学ばせ、さらに、飼育料として1月に金125両および部屋代として水油と薪を3年間支給することとした。象の払下げは経費削減という理由はもとより、「火の元の用心」が払下げ理由として掲げられていることから、火事の多かった江戸の災害時を想定しての治安上の理由も考えられる。実際、中野村では寛保2年7月1日に、払下げられた象が繋綱を引きちぎって小屋を押し破る騒動があり、このときには町奉行から与力2名、同心5名が派遣されている。

当初、人びとは象見物に殺到し、象に関する 商品をあらそって購入したが、そのうち見物人は減っていった。エサも貧弱なものになっていった。源助らは見物料を徴収するなどして飼育をつづけたが、突然病気となり、手厚い看護がなされた。武蔵国落合村の馬医幸山五左衛門から診察と投薬もなされた。しかし、それもかなわず寛保2年12月13日(西暦1743年1月8日)に中野村で病死した。およそ21歳であったと考えられる。

象の遺骸は解体されて骨と皮に分けられ、皮は幕府へ献上され、骨や牙は源助へ与えられた。肉は塩漬けにして60樽分となったが、やがて腐敗してしまった。象の骨や牙はなお見世物として、25年もの間源助に収入をもたらしたという。骨と牙はその後、 中野の真言宗豊山派寺院の宝仙寺に納められ、『江戸名所図会』などでも「馴象之枯骨」の名で取り上げられたが、太平洋戦争の戦災に遭い、一部が失われた。象皮については、宝仙寺で保管されていたという説もあるが、大和国奈良の由緒ある製墨業者、古梅園が寛保3年(1743年)に幕府より象皮・象鼻をあたえられたという記録があり、吉宗の命により、その皮から「香象墨」を製造し、鼻は古梅園で現在も保管されていると言い伝えられている。

現在、象厩の跡は中野区立朝日が丘公園(東京都中野区本町二丁目32番地)になっており、現地には中野区教育委員会の説明板が設置されている。なお、当時象をデザイン した商品のうち宝仙寺所蔵のものは、現在、中野区立歴史民俗資料館に保管されている。

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