紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

中山道大井宿と駅前の近代化

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案内板
中山道大井宿と駅前の近代化

盆地の底の平坦地にある大井の町場は、周囲の山間農村を結ぶ道路の結節点として、 人や物が行き交う交通上の要衝となっていた。江戸時代には中山道の宿駅(大井宿)としての役割を担ったことから、旅籠屋や商家が増えて発展し、天保14(1834)年には、宿内戸数110軒、旅籠屋は41軒、人口は466人であった。大井宿の町並みは、大井橋の東の袂から上宿の高札場までの6町半(約709m)で、西から橋場・茶屋町(中嶋町)・竪町・本町・横町に分かれ、道はそれぞれの町のはずれでほぼ直角に折れ曲がり、整然とした町割を形成していた。
これに対して、江戸時代の恵那駅前一帯は田畑、原野だったが、明治になると、中山道をはさんで家が建ち始め、明治28(1895)年に大井町新町となった。明治35(1902)年に中央線大井町駅が開業すると、大井町がこの地域の物資の集散地となり、駅と国道中山道の間が幅6間(約10.9m)の道路で結ばれ、両側には街路樹として柳が植えられた。その後、各町村へ通じる街道が整備され、町の基本形態が出来上がっていった。
駅前からは、正家、東野から岩村、明知方面への南北街道が整備されるとともに、明治39(1906)年に岩村に通じる電気鉄道が開通し、昭和9(1934)年には大井~明知間に国鉄明知線が開通した。大井駅がこの地域の物資の人や物資の乗降場となるに従って、駅前通りには多くの旅館や運送店が開業し、一帯には駅前の集まる人々を対象にしたさまざまな店舗が軒を並べ、商業地として発展していった。

平成24年8月
恵那市恵那市教育委員会