紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

石作 駒石(いしづくり くいし)

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案内板
「 石作 駒石 (いしづくり くいし)

寛保元年(1741)山村代官家臣井沢喜兵衛の二男で生まれる。名前を貞(てい・貞一郎)字(あざな)は士幹(しかん)。後に姓を石作と改正し、号を駒石とした。18才の時父が亡くなり家を継ぎ、良由(たかよし・蘇門)御側役(おそばやく)となり、1才下の良由の学友となり、学問・武芸・兵法を学ぶ。
駒石は学才を認められ、尾張名古屋の山村屋敷勤めにし、伊勢の南宮大湫(なんぐうたいしゅう)のもとで学ぶことができた。
3年後木曽に帰り、良由の学問相手となり、家中の子弟を教え、多くの学者と交流を深め、漢詩で名を挙げた。
天明元年(1781)良由は九代代官となった時、一万両の借金があったため、財政建直しのため駒石を勘定役にあてた。駒石は『倹約・節約』に勤め 、商人には実情を話し、協力を求め、この努力で借金はなくなった。

天明の飢饉では、中山道の宿と往来する旅人たちの米を確保するため、良由と共に周囲の藩、尾張藩江戸幕府に訴え頼み木曽への米の搬入を確保し、木曽での酒造りを禁止して、食料にまわした。さらに開田、馬産、漆器、製薬等にも力を入れ、一人も餓死者を出さなかった。
良由は駒石を連れて木曽全体を巡視して現状を把握して、困っている人たちへの援助をした。
この改善は中山道を通った老中松平定信の知る所となり、幕府の老中に良由をと尾張藩へ伝えたところ、そのように立派な人なら尾張藩で働いてもらいたいと家老に迎えられた。
駒石は現在西方寺敷地内に書斎『翠山桜』(山村代官屋敷に移築保存)を建て、学問や詩作に励み、『翠山桜詩集』をつくった。
寛政9年(1795)駒石は57才で亡くなる。
遺言により、興善寺墓地の他に駒ヶ岳見える七笑にも墓が建てられた。
碑には学者『細井平洲』の碑文が刻まれている。 」