紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

宮ノ越宿 田中邸

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案内板
宮ノ越宿 田中邸

■田中家(旧田中邸)の概要
中山道宮ノ越宿の田中家は、宿絵図に旅籠屋田中忠右衛門と記された旅籠であったが、明治十六年(1883)の上町から下町まで九十戸を焼失する大火で焼失した。
現在の建物は、大火時に搬出された建具類と、隣村から運んだ建物部材を使用して再建されたものと伝えられており、背の高い差鴨居を多用しているので、移築した建物の建築年代は幕末期と考えられる。また、入り口周りの痕跡からみると、間口四間ほどの建物の土間部分を狭くし、間口を縮めて移築したものと考えられる。現在の間口は三間四尺あるので、宿絵図に記された三間より広く、大火により町割の再編がされとことがうかがえる。建物は大きな改築をすることなく住宅として使用されてきたが、平成九年に旧日義村へ寄贈された。
田中家主屋は、間口三間四尺、奥行き八間の二階建てで、二階を三尺張り出した出梁造り(だしばりづくり)の建物であり、一階の格子と二階の障子戸の対比が美しい伝統的な宿場の建築様式を伝えている。
間取りは、大戸の入り口を入ると通り土間があり、片側に一列に十畳、勝手(六坪余)、十畳がある。二階には勝手にある箱階段から上がり、勝手の囲炉裏部分は吹き抜けとして、他は表から裏まで間仕切りの無い一室になっていた。
入り口の持ち送りは、波しぶきの彫もしっかりとしていて、宮ノ越大工の腕の確かさを証明している。
平成二十六年の修復復元工事にあたり、古い部材の再使用など建築当時の姿を保つよう配慮しながら、奥の縁側に階段を新設したほか、入り口の十畳は土間へ改装し、構造補強の壁を追加するなど、交流の場としての活用を目的とした改装を行った。

宮ノ越大工
江戸時代(嘉永元年)の宮ノ越村では、二七九軒のうち六二軒が大工・杣・木挽きであった。隣村である原野村にも大工が多く、彼らは棟梁を中心に七~八人で『一手合』という集団を作り、諏訪や松本などの近隣はもとより、甲州三河駿府などへ出かけ、各地の社寺や民家の建築に携わった。

民家の持ち送りに彫刻を施したものがみられるが、これらは大工棟梁から施主建築主への祝儀として贈られたものであった。

■江戸末期の田中家に関する考証
江戸末期から明治初期の作図と考えられる宮ノ越宿の宿場建物図が残されており、この図から読み解いた当時の田中家の特徴は以下のとおり。

(1)間口は三間(現在は三間四尺)。間口が狭く奥行きの長い町家建築。
(2)周辺の建物では比較的規模が大きく、庭や設備も充実しており、宮ノ越宿下町の中では中心的な旅籠であったと考えられる。
(3)中庭が特徴的で、中庭の奥に厠、湯殿が配置されている。
(4)奥に通じる直線の土間、囲炉裏、流しの位置など基本構成は現在の建物と同様であり、当時の建物利用と建築様式を良く伝えている。
(5)建物内部には壁が少なく、ほとんどが建具で仕切られていた。
おそらく二階建てであったと考えられるが、階段が記載されていないのは、当時階段は家具であったことの表れと考えられる。
おそらく、旅人は街道に面した板の間を通り、勝手にあった箱階段を利用して二階に上ったことであろう。

木曽町 」


この案内板に出てくる「持ち送り」をwikipediaで調べてみました。


持ち送り wikipediaより

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持ち送りまたはコーベル(corbel)は、壁から突き出した石などの構造物で、その上に張り出した重量を支持する。持出し、持送り積み、受け材とも。同じ構造でも木でできたものは、「梁受け (tassel)」と呼ぶ。持ち送り構造 (corbelling) は、一連の持ち送りを壁に深くかみ合わせて、張り出した壁や手摺を支持する技法で、新石器時代から使われてきた。

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