案内板
「 防火高塀跡
元禄八年七月(1695)藪原宿のほとんど全部が焼失する大火があった。その後、防火対策として宿再建の際各戸一間につき一寸の割合で提供し合って上横水と下横水(現在の二又)の二箇所に四ツ辻の広小路を作った。
文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築きその上に高い土塀を作って防火壁とした。当時、これを『高塀』と呼んでいた。宮田敏の『岨俗一隅』にはその様子が伺える絵図が載っているが、現在、石垣の一部のみが残されている。
消火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路の工夫や建物に卯建(うだつ)を付けるとか火除け広場を確保するなどしている。
この藪原宿のような防火高土壁によるのは少ない例である。 」