紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

望月、駒の里

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「まちむら交流きこう」より

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古代信濃16牧の中心の望月の牧は、王朝文化人の間で「望月の駒」としてもてはやされ、その里は、はるかなる憧れの地でもあったのです。

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長野県ホームページより

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望月の駒

その昔、望月の牧(まき)は朝廷(ちょうてい)へさし出す馬の産地(さんち)として名高いところでした。

ある年、望月のとの様の館(やかた)に一人のむすめが生まれました。同じ日に、牧の馬屋で月毛(※)の駒が生まれました。

「同じ日に、姫(ひめ)と駒が生まれるとはまことにめでたいことじゃ。姫は生駒(いこま)姫と名づけようぞ!」との様はたいそう喜びました。

やがて、姫は山にさくユリのようにりりしく美しく育ち、月毛の駒は美しい毛なみのたくましい駒になりました。姫のうわさ、駒のうわさは四方に広がりました。

姫が十三才をむかえたある日、うわさを聞いた都の帝(みかど)からおめしがありました。「わが牧の姫に帝のおめしじゃ。わが牧も栄(さか)えるというものよ」喜びにわく館とはうらはらに、月毛は馬屋にふしたまま、かいばを食べなくなってしまいました。

「望月一番の駒が病とは一大事」と手をつくしてみましたが、いっこうに良くなりません。そこで、浅間(あさま)の行者にうらなってもらったところ、「生駒姫にこいしているのじゃ」というのです。

「帝にめされた姫に思いをよせるとはけしからん」との様はたいへんなはらだちよう。ところが姫は、「わたしは月毛とともに、この自然(しぜん)の中でくらしとうございます」というのでした。

困りはてたとの様は、月毛にあきらめさせるために、難題(なんだい)をもちかけました。「もし、鐘(かね)が四つ(十時)から九つ(十二時)を打つまでの間に、領内を三たびめぐりおえるならば、姫をあげよう」というのです。

これを聞いた月毛は勇み立ちました。四つの鐘とともにかけ出した月毛は矢のように領内を走りぬけました。一たび、ニたび。そしてまだ九つには間があるというのに、三たびめぐり終えるところまで来ました。

その時、鳴るはずのない九つの鐘がひびきわたりました。それを聞くと、むねもさけるばかり、足もおれるばかりにかけめぐってきた月毛は身もだえしながら、谷底へまっさかさまに落ちていきました。

との様は「これでやっかいばらいもできたというもの。姫も都へ上がるであろう」と、苦々しくわらいました。ところが、月毛の死を聞いた生駒姫は、都へ上るどころか長いかみをぷっちりたち切って、尼(あま)になってしまったということです。

(※月毛=赤みをおびた茶色)

佐久市教育委員会のきょう力をいただき、地元につたわる話を要約(ようやく)しました。)

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