案内板
「 茂田井農村公園
この公園は、生活や生産の憩いの場、コミュニティ活動の場及び未来を担う子ども達が楽しく元気いっぱいに遊びまわり自然に親しみ、仲間と共に体力づくりや、健康の保持・増進に役立てるために整備したものです。
*みんなで仲よく元気に遊ぼう。
*きまりを守り大切に使おう。
*いつもきれいにしよう。
補助事業名
平成九年度農村総合整備モデル事業
事業主体 立科町 」
諏訪神社の祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)である。この神は出雲系諏訪族の祖先として諏訪の上下二社に奉斉され古くは南宮ともいった。諏訪神社を中心とする諏訪信仰は全国的であり、その分社の数も非常に多い。
茂田井の諏訪社の創建年は不明である。この神社に関する最も古い記録は天正十六年(一五八八)当時の小諸藩主松平康国(芦田城主依田信蕃の子)が蓼科神社の神官今井曽五郎にあてた書状がある。この神社を『毛田井之宮(もたいのみや)』として『神領を遣わせているからには一騎の軍役を勤め、宮の修理、祭、祈念を怠ってはならない』とある。現在の社殿は江戸時代末期の文化十五年(一八一八)に茂田井の宮大工・田中圓蔵が建てたもので上尾の中の本殿は一間社流造でたが全部みごとな彫刻で飾られている。圓蔵は当時宮大工として天下に名声のあった諏訪の初代立川和四郎の弟子となった人で現在立科町にある圓蔵の作と伝えられるものに、津金寺の仁王門と妙見堂(二代和四郎と共作)・古町光徳寺山門がある。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」
案内板に書いてある、「上尾の中の本殿」というのがよくわかりません。
一間社流造については調べました。
京都通百科事典より
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
流造(ながれづくり)は全国で最も多い神社建築様式
建物の長辺側あるないは屋根の棟(むね)と平行な面に建物の出入り口がある平入
屋根が反り、屋根が正面入り口のほうに曲線的に長く突き出て向拝(こうはい)(庇)となっている
横に並んだ柱が2本で間(桁行)が1間だと「一間社流造」、柱が4本あり3間だと「三間社流造」と称される
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
一間社流造はコトバンクによれば、
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
小規模な神社本殿形式の一つ。正面の柱間(はしらま)が一間のもの。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ネットで拾った、一間社流造
ネットで拾った、三間社流造