軽井沢宿 wikipediaより
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軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
概要
現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2~3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。
天保14年(1843年)の『 中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。
明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。
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二手橋 「信州STYLE」より
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旧軽井沢のメインストリート(中山道軽井沢宿)の最奥に位置する二手橋(にてばし)。矢ヶ崎川の爽やかな清流に架かる橋ですが、ここが軽井沢宿の飯盛女(めしもりおんな)が客を見送り別れた場所。それで二手に分かれたのでその名があるのだとか。
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飯盛女 wikipediaより
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飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。
江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊廓ほか、為政者が定めた遊廓の中のみで営業が許されていたが、飯盛り女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていた。飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。
また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。
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