紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

新町 八坂神社

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案内板
「 新町 八坂神社

八坂神社は、明治の神仏分離まで(八坂)祇園社と称した。社伝では斉明二年(六五六)高麗より来朝した調進副使伊利之使主(いりしおみ)が新羅国(しらぎ)牛頭山(ごずさん)に祭られる素戔嗚尊(すさのう)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まりとしている。一般に祇園社の創立は貞観(じょうがん)十八年(八七六)とされている。ご祭神は素戔嗚尊を主神とし櫛稲田姫(くしなだひめ)命と八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭る。
著名な祇園祭清和天皇貞観十一年(八六九)、疫病が大流行した際、天皇の遊覧の場所である神泉苑に鉾(ほこ)六六本を建て御霊会(ごりょうえ)を行ったのを起源とし、天祿元年(九七〇)から恒例となった。
『弘文堂 神道辞典』

祇園社では、疫病を防ぐ事から転じて諸悪から身を護る神とされ、悪鬼を祓う神としても信仰された。
新町八坂神社は、中山道沿いに武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に至る玄関口に位置し、疫病の侵入と蔓延を除き、諸悪から身を護り、長寿を祈願する神社として建立されたと伝えられている。


柳の茶屋
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新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に『傘(からかさ)におしわけみたり柳かな』の芭蕉の句碑が立っている。高さ八十cm横五十cmぐらいの雲母岩に陰刻され、新町の俳人、小渕湛水(たんすい)と笛木白水が建てたと『諸国翁墳記』に記載されているが、寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間といわれている。
宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ばれるようになった。
中山道を行く 荻野 悌 著』」


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案内板
「 柳茶屋の芭蕉句碑

『諸国翁墳記(しょこくおきなづかのき)』に『翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建』『傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな』とあります。
『諸国翁墳記』は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲芭蕉の墓がある)で出版されました。
この句碑は寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間に、近くに柳の大木があることから、『柳茶屋』と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水と白水が建てたと思われます。 」