紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

観音堂新築記念碑

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案内板
観音堂新築記念碑

渡辺綱守本尊吹張山観音由来

当箕田観世音は、今を去る一千有余年前、平安時代中期の武将渡辺綱公を開祖とする由緒ある馬頭観世音である。この馬頭観世音は六孫王(清和天皇第六皇子の子)と言われた源経基公が、戦いの折に兜に頂いて出陣した一寸八分(約33㎜)の尊像である。 承平の頃、経基公が大間の箕田城に在城の折、ある夜不思議な霊夢をみて、箕田の源仕公(渡辺綱の祖父)に譲り下された。箕田の仕公は、周囲の征夷を行った功績により武蔵守に任ぜられたが、これは他ならぬ観世音の『畏怖軍陣中 念被観音力 衆怨悉退散』のご加護のたまものである。それより、源仕公から源充公へ、源充公から渡辺公にと相伝えられ渡辺綱公がこの地に安置されたものである。時、正に永延元年(987)のことであった。それゆえに当観世音を『渡辺綱守本尊』と称し奉った。また、当観世音は別当真言宗吹張山平等寺でもある。この寺は宇治の『平等院』をここに移し『吹張山圓通寺殿』の別所と称したものである。当観音堂舎は、従来は大堂であったが明治五年二月に日の火災により焼失し、同年直ちに同地内の別当平等寺を引き直し本堂として修復工事を行ったものである。また従来より言い伝えられていた一寸八分の尊像もこのたびの本堂解体工事の際に無事見出され、百数十年ぶりにその御姿を現しになった。更に当観世音は忍領三十三観音霊場の七番観音にあたり、元禄の頃より巡礼者も多く賑わったと言い伝えられている。数百有余年の風雪に耐えた本堂も老巧化が進み、この度『開山一千年の記念事業』として、信徒の総意に基づきここに本堂の改築を行ったものである。この大事業が無事完成を見たのも、観世音菩薩の広大無辺なるご加護と共に、信徒各位の一層のご多幸、御繁栄を至心に祈願して、これを永代に残すものである。

平成三年(一九九一年)二月吉日 」