紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き27日目の1(間の宿石畑から愛知川宿への道)

二度目の中山道27日目の1
2020年11月12日(木)


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【金田池】

6:00 起床

彦根駅8:04発の電車に乗り、豊郷駅着は8:24。
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身支度して、出発は8:31。

8:41 天稚彦神
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8:41 旧家
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8:41 酒造西澤藤平商店
銘酒「出世誉」蔵元
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8:42 金田池
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案内板

「 水の香る郷

金田池

この地より北約五十米の処、大字澤
一番地に金田池と称する湧水があり、田の用水に、また中山道を旅する人達の喉をうるおしてきた。
近年の地殻変化により、出水しなくなり埋め立てられたが、当区の最上流で永年名水として親しまれた池ゆえにそれを模して再現した。 」


8:43 「ここは豊郷町下枝」
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大きなタンクに江州音頭の絵が描かれています。


【又十屋敷と一里塚址】

8:43 又十屋敷
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案内板
「 当館は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した近江商人藤野家本宅跡です。明治初期に入ると我国初めての鮭缶の製造を始め五稜北辰の商標『星印』で商売した所、人気を博しました。今日では『アケボノ缶詰』として受け継がれています。亦天保の大飢饉には住民救済の為行われた又十の飢饉普請は有名で江州音頭発祥の地千樹寺の再建と当家の建造物及び湖国百選に紹介されている名庭園『松前の庭』勝本宗益作等何れも当時の原形を今日までほどよく保存されています。また、館内には千数点に及ぶ美術・工芸品等が展示されています。 」

又十屋敷の敷地内に、中山道一里塚址の碑もありました。
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今まで書き忘れていましたが、滋賀県にはたくさんの「とびだしくん」があちこちに見え隠れしています。
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2016年に撮った飛び出し君の写真です。
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8:46 西還寺
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江州音頭発祥の地 千樹禪寺】

8:48 江州音頭発祥の地 千樹禪寺
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案内板
観音堂(千樹寺)と盆踊り 
江州音頭発祥の起源

 天正十四年(西暦1586年)今から四百五年前、藤野太郎衛門常実が兵火(永禄十一年五月七日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦七月十七日であった。

 当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、文句は羯諦羯諦波羅羯諦(かっていかっていはらかってい)。波羅僧羯諦(はらそうかってい)。等(時の住職根與上人)経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り踊らせ、来観の群衆もあまりの楽しさに参加して踊ったと伝えられる。

 その後、毎年七月十七日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で益々多くなった。
弘化三年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、種々の花傘とか華美なる扇子を持ちて踊らせ、音頭(音頭取・桜川大竜)も陣新なる文句を作り、益々好評を博し、その後他村の社寺は勿論、他共同の祝事には此、手踊りを催すこととなり、今では、毎年八月十七日観音盆には、扇踊り、日傘踊りを踊り好評を博している。

     竣工 平成三年十月 」


【歌詰橋と平将門

8:53 歌詰橋
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2016年に撮った歌詰橋です。
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案内板
「 宇曽川と歌詰橋

 宇曽川

 宇曽川は、秦川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て琵琶湖に注いでいる。

 この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資のみでなく、重い石も舟運を利用して運んでいた。また、木材は、丸太のまま上流から流したという。

 このことから『運槽川』と呼ばれていたが、中世になって、うそ川となまったようである。

 歌詰橋

 宇曽川に架けられていたこの橋は、かつては十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に土を塗りこめた土橋であった。

 天慶三年(960)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。

 以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。 」

「宇曽川と歌詰橋」の案内板から歌詰橋を振り返りました。
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8:58 普門寺(裏に平将門首塚?)
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平将門首塚と言われていますが、円墳らしいとのことです。

9:01 薬師堂
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9:02 正光寺
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9:05 石部神社
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【豊満神社への道標】

9:12 豊満神社への道標
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案内板
「 豊満神社への道標

道標は、平成二十七年一月二十六日に有形民俗文化財として町指定文化財に指定された。建立時期は不明であるが、文化三年(一八〇六)の『中山道分間延絵図(なかせんどうぶんけんのぶえず)』に記載があることから、一八〇六年以前に建てられたと推測できる。絵図には、中山道沓掛の三差路にこの道標が描かれ、『道印』と記されている。この東南に分かれる道には、『裏家小路 市村江道法三丁豊満村江道法拾丁 高野永源寺江道法六里』と記されている。高さは一二八㎝で、東面には『願主何某』、北面の下部には『左 拾』と陰刻されている。

平成二十八年三月
愛荘町教育委員会


9:16 河脇神社
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二度目の中山道27日目の2(愛知川宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/26/164208


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003