紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き7日目の6(軽井沢宿から沓掛宿への道)

2度目の中山道7日目の6
4月4日(土)の6


f:id:asiandream0804:20200529110629j:plain

【軽井沢宿入口 二手橋と飯盛女】


軽井沢宿 wikipediaより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。

概要
現在の長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢駅北側一帯。一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2~3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。

天保14年(1843年)の『 中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。

明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

f:id:asiandream0804:20200529102611j:plain
14:05 矢ヶ崎川 二手橋

二手橋トイレを利用しました。


二手橋 「信州STYLE」より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

旧軽井沢のメインストリート(中山道軽井沢宿)の最奥に位置する二手橋(にてばし)。矢ヶ崎川の爽やかな清流に架かる橋ですが、ここが軽井沢宿の飯盛女(めしもりおんな)が客を見送り別れた場所。それで二手に分かれたのでその名があるのだとか。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑


飯盛女 wikipediaより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓

飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。

江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊廓ほか、為政者が定めた遊廓の中のみで営業が許されていたが、飯盛り女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていた。飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。

また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑


【避暑地軽井沢発祥の地】


14:06 軽井沢ショー記念礼拝堂
f:id:asiandream0804:20200529102652j:plain
f:id:asiandream0804:20200529102716j:plain
避暑地軽井沢発祥の地

日本聖公会 軽井沢ショー記念礼拝堂

案内板
「 カナダ生まれの英国国教会(聖公会)宣教師A・C・ショー師が家族を伴い軽井沢で避暑生活をはじめたのは一八八六年(明治一九年)である。師は毎夏この地を訪れ、静思、休養、親交の場とするとともに、礼拝所を設けて霊的よりどころとした。
現在の礼拝堂は一八九五(明治二十八)年に由緒あるこの地に建てられ、今もなお天地創造の神を賛美し、祈祷、静想、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に開放されている。 」

f:id:asiandream0804:20200529110711j:plain


芭蕉句碑】

14:07 芭蕉句碑
f:id:asiandream0804:20200529102803j:plain
f:id:asiandream0804:20200529102822j:plain
f:id:asiandream0804:20200529102835j:plain
案内板
芭蕉句碑

芭蕉

馬をさへ ながむる雪の あした哉

 松尾芭蕉(一六四四~一六九四)『野ざらし紀行』(甲子吟行)中の一句。前書きに『旅人をみる』とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い恰好で通っていくとの意。
(飯野哲二編『芭蕉辞典』による)

 碑は、天保十四年(一八四三年)当地の俳人 小林玉達によって、芭蕉翁百五十回忌に建てられたものである。

     軽井沢町 」  

f:id:asiandream0804:20200529102856j:plain
案内板
芭蕉句碑 

天保14年(1843)に地元の門下生である俳人小林玉蓬によって建てられました。

馬をさへ なかむる雪の あした哉
(甲子吟行の句)  

(この下に英語、ハングル、中国語で同内容で書いてあります。)」                                                     
【御宿つるや旅館】

14:09 つるや旅館
f:id:asiandream0804:20200529103102j:plain

軽井沢宿の江戸方枡形の地にある、かつての茶店、現在は旅館になっている「御宿 つるや」。門前に「中山道 軽井沢宿」と記された石塔。

御宿つるや旅館ホームページより、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

つるや旅館の歴史

つるや旅館は、江戸時代初期に中山道の宿場町軽井沢宿の休泊茶屋、旅籠鶴屋として開業しました。
明治に入り、宣教師たちの軽井沢への往来が始まると、つるやは旅館業に転じ、日本風の建物のまま、西洋風な雰囲気を取り入れました。その後、大正には、多くの文人たちが泊まられました。
芥川龍之介室生犀星堀辰雄らが、暖かな雰囲気の中で執筆を行いました。
そして、今、幾度かの改装を重ねながら、軽井沢の昔を今につなぐ旅館として、歴史を守り続けています。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

f:id:asiandream0804:20200529103131j:plain

旧軽井沢銀座はがらがら。自粛の首都圏から長野県辺りに避難する人が増えていると聞いていたので、軽井沢は混んでいるかもしれない、と思ったら、観光客はほとんど来ていないようでした。

f:id:asiandream0804:20200529103145j:plain


【本陣跡 脇本陣跡】

cocodoco軽井沢」より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

江戸時代の軽井沢は、中山道の一宿として栄えます。中山道はご存知の通り、東海、甲州、日光、中山、奥州街道の江戸5街道の一つで、六十九次あるうちの江戸から数えて十八番目の宿場でした。現在の旧軽井沢銀座通りが江戸時代の軽井沢宿で、ほぼ直線的につくられ、その中央に大名や公家などの宿泊に備えた本陣を置き、脇本陣4軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったそう。数百人の飯盛女が働いていたという記録も残っています。

このように江戸時代の軽井沢宿は、碓氷峠の登り口の宿場として、峠越えをした旅人や朝立ちで峠を越えようとする客人たちで大変に賑わったといいます。しかし、宿場町は栄えていたものの、それを取り囲むように広がる農村地帯は、高冷地のため作物に適しているとは言えず、ごくわずかに取れるアワやヒエなどの雑穀物が主な産物という、まさに寒村。木が一本も生えていない湿地帯で、現在の「軽井沢72ゴルフ」あたりから旧軽井沢までは、舟で渡ったといいます。

そんな貧しい村には、毎年のように冷害や浅間山の噴火という自然災害が襲います。さらには幕府によって、宿場の保護及び人足や馬の補充を目的とした助郷(すけごう)という夫役が課されたため、農業に携わる民衆の暮らしは悲惨なものだったと伝えられています。旅人たちが落とす路銀(ろぎん)が、生活を支える大きな収入源だったのです。


参勤交代に公家もお泊りになられた
軽井沢本陣の今

現在、軽井沢宿の本陣があった場所は、ショッピングモールの「チャーチストリート軽井沢」となっており、当時の面影を感じさせるようなものは残っていません。唯一、あるとすれば、チャーチストリート軽井沢の裏手に建てられた記念碑「明治天皇軽井澤行所在碑」。明治天皇は、ここにあった本陣で昼食をとられたそうです。


それぞれの歴史を刻み、歩みを変えた4つの脇本陣

4軒あった脇本陣は、それぞれ「江戸屋」「三度屋」「佐忠」「丁字屋」という屋号だったそうで、「江戸屋」は現在、子孫の佐藤真知子さんが経営する「アートカフェ江戸屋」になっています。


14:14 アートカフェ脇本陣江戸屋前
f:id:asiandream0804:20200529110600j:plain

f:id:asiandream0804:20200529110746j:plain


【軽井沢ランチ】

14:25 カフェレストラン PAOMU
f:id:asiandream0804:20200529110833j:plain
f:id:asiandream0804:20200529110905j:plain

PAOMUホームページより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

カフェレストランぱおむは、軽井沢町旧軽井沢銀座通りにある洋食のお店です。
真心を込めた手作りの味と接客を心に置きお客様をお待ちしております。
月ごとに季節の食材を使った、ランチメニューやスイーツもお楽しみ下さい。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

ハッシュドビーフ 1,300円
f:id:asiandream0804:20200529110934j:plain
Sサラダ 300円
f:id:asiandream0804:20200529110959j:plain
セイロンティー 225円
f:id:asiandream0804:20200529111015j:plain

合計1,825円+182円=2,007円

サービスでお菓子を持ってきてくださったのですが、もう満腹で残念ながら食べられませんでした。

外に出たら、14:56で、closeの札が出ていました。
f:id:asiandream0804:20200529111039j:plain
f:id:asiandream0804:20200529111107j:plain


【離山通り】

14:57 旧ロータリー(西の桝形跡)
f:id:asiandream0804:20200529155524j:plain
旧ロータリーから、離山通りを中軽井沢方面に歩きました。

15:02 雪がたくさん残っていました。
f:id:asiandream0804:20200529155731j:plain

カラマツの道を歩きます。
f:id:asiandream0804:20200529155822j:plain

15:09 六本辻
f:id:asiandream0804:20200529155918j:plain
ここは六本の道の交差点ですが、信号がなく、ラウンドアバウトという、時計回りに回りながら目的の道で環状から外れる方式の交差点です。信号より渋滞が起こらないのですが、慣れないと出たり入ったりが難しいようです。(確かパリの凱旋門ラウンドアバウトだったと思います。)

中軽井沢方面に向かいます。
f:id:asiandream0804:20200529160022j:plain

カラマツ林をさらに歩きます。
f:id:asiandream0804:20200529160125j:plain

15:27 軽井沢ロンギングハウス
f:id:asiandream0804:20200529160207j:plain

軽井沢ロンギングハウスHPより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

私たちLONGINGHOUSEは1981年に
軽井沢の地で誕生しました
軽井沢の食材や自然を活かしたサービスで、
お客様のココロもカラダも元気にする
ホテル、レストランを展開しています

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

野菜の美味しいオーベルジュのレストランと、軽井沢を満喫できるホテルだそうです。

ロンギングハウスの後ろに離山が見えます。


15:29 石仏石塔群
f:id:asiandream0804:20200529160311j:plain
庚申塔や正徳三年(1713)建立の観音像など六基が祀られています。

15:31 赤鳥居(山腹に稲荷神社があります)
f:id:asiandream0804:20200529160421j:plain

15:34 馬頭観音
f:id:asiandream0804:20200529160456j:plain

離山交差点で国道18号線に合流しました。


【旧近衛文麿別荘・市村記念館・旧雨宮邸】

15:39 旧近衛文麿別荘
f:id:asiandream0804:20200529161444j:plain
f:id:asiandream0804:20200529161533j:plain

長野県情報【E-CURE】より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

市村記念館 旧近衛文麿別荘|後陽成天皇の12世孫で元内閣総理大臣の別荘|軽井沢町長倉

近衛文麿首相が大正15年にアメリカ屋建築の別荘を第1号別荘として購入した。
その後、近衛首相と親交のあった早稲田大学教授で政治学者の市村今朝蔵・きよじ夫妻が居宅として譲受け軽井沢別荘地開発の拠点とした。

市村記念館は、国道18号線沿いの離山公園内にあり、旧雨宮邸と併設されている。庭内の案内版にしたがって木立のなかを進んだ場所にある。

市村夫妻没後に市村家遺族から軽井沢町に寄贈され、平成9年に軽井沢南原から現在の場所に移築され公開されている。

アメリカ屋建築の構造は外観はアメリカ風であるが内部は和室、洋室入り交じった建造物が特徴である。


市村記念館内には近衛文麿、雨宮敬二郎、市村家の資料等が展示されている。

軽井沢に多くの別荘建築を残したアメリカ屋建築の独特な設計である。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑


15:419 雨宮の池
f:id:asiandream0804:20200529161610j:plain
f:id:asiandream0804:20200529161648j:plain

cocodoco軽井沢より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

離山は、中軽井沢と旧軽井沢の間に位置する標高1256mの小さな山。山頂までは、1時間程で登れるため、とてもお手軽な登山コースとして人気を集めています。その麓に広がっているのが、「離山公園」。軽井沢の発展に大きく貢献した雨宮敬次郎の屋敷、通称「雨宮御殿」を中心に、美術館や資料館などが点在し、軽井沢散策にとても適した穴場スポットとなっています。


雨宮敬次郎(あまのみや けいじろう)は、明治時代を駆け抜けた大実業家。養蚕や鉄道、製鉄など多角経営で成功を収め、軽井沢にて近代農場を経営する計画も進めます。しかし事は思うように進まず、何度もとん挫。ようやく植林事業が当たるのです。

この植林事業や、その後に続く人たちの努力によって、草木があまり生えない荒涼とした軽井沢は、今のような緑豊かな土地に生まれ変わりました。雨宮記念館(旧雨宮邸)には、雨宮御殿と呼ばれた明治17年に建てられた母屋、明治22年に建てられた新座敷が佇み、敷地内には「旧雨宮邸庭園」や「雨宮池」と呼ばれる大きな池もあって、散策には打ってつけ。伊藤博文をはじめとした政財界人が招かれた新座敷は、現在公開中です。蔵跡はギャラリーとして開放され、年間を通じてさまざまな展示会が催されています。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑


15:43 軽井沢中学校前交差点を左側に渡り、そのまま進んで踏切を渡りました。

右折して旧道を歩きます。
f:id:asiandream0804:20200529161721j:plain

浅間山が民家の間から見えます。
f:id:asiandream0804:20200529161840j:plain

浅間山が近づいてきます。
f:id:asiandream0804:20200529161933j:plain
f:id:asiandream0804:20200529162014j:plain

15:51 前沢橋からの浅間山がきれい。
f:id:asiandream0804:20200529162046j:plain

15:53 しなの鉄道湯川橋りょうを潜りました。
f:id:asiandream0804:20200529162124j:plain
f:id:asiandream0804:20200529162147j:plain

ここからも浅間山が綺麗に見えます。
f:id:asiandream0804:20200529162315j:plain

15:55 国道18号線に合流しました。
f:id:asiandream0804:20200529162219j:plain

15:56 道の反対側に「中山道沓掛宿」碑
f:id:asiandream0804:20200529162340j:plain

16:00 中軽井沢駅
f:id:asiandream0804:20200529162414j:plain

くつかけテラス
f:id:asiandream0804:20200529162457j:plain

軽井沢町ホームページより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

平成25年4月1日にオープンしました交流施設は、町がしなの鉄道中軽井沢駅前に建設。地域交流施設の愛称は、一帯の古い地名「沓掛(くつかけ)」にちなんだ「くつかけテラス」 沓掛は、「軽井沢」と同じく旧中山道の宿場名。 図書館のほか同町で店を開きたい人を対象にしたチャレンジショップ、観光案内所などがあります。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

f:id:asiandream0804:20200529162527j:plain

暫し待合室で過ごしました。

16:41 中軽井沢発

16:46 軽井沢着
f:id:asiandream0804:20200529162558j:plain
f:id:asiandream0804:20200529162621j:plain

ファミマへ行って、明日の朝のパンなどを買いました。

アパホテル軽井沢駅前「軽井沢荘」

19:00 夕食

ヴィシソワーズスープ、サラダ

チキンカツレツチーズ掛け
f:id:asiandream0804:20200529162722j:plain

オレンジゼリー
f:id:asiandream0804:20200529162744j:plain

ビールが600円

本日の歩数 33,719歩 20.56km


2度目の中山道8日目の1(沓掛〜追分宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/04/002059


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003


f:id:asiandream0804:20200529111134j:plain