紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道2日目(北浦和駅〜大宮)

2度目の中山道2日目

2020年3月1日(日)

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仕事がちょっとだけ早めに終わり、北浦和に向かいました。

今夜、浦和に近いホテルに泊まり(ビジネスホテルは大抵、日曜はすいていて安い)、明日早起きして中山道2日目を歩く予定でしたが、明日は雨の予報なので、今日の夕方、少しだけ歩くことにしました。

今日は、北浦和から大宮まで歩きました。

駅で言うと、

北浦和〜与野〜さいたま副都心〜大宮を歩きました。

16:12 北浦和駅
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歩き始めて暫くして、

「あっ、職場に歩数計を忘れてきた!」

職場で、歩数計を時計としてユニフォームのポケットに入れているのですが、ポケットに入れたままロッカーに置いてきてしまいました。

暫し立ち止まり、歩数計アプリをダウンロードしようとしたのですが、ストレージの容量不足で出来ませんでした。

今日明日は、歩数計は諦めましょう。

ガイド本に書いてあった、紅赤発祥の地や、庚申塔は見つけられませんでした。

初めて見つけた案内板が、一本杉の仇討ち碑。(16:43)
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案内板
浦和区文化の小径

一本杉の仇討ち跡

〜幕末の中山道に伝わる大事件〜

この地は、中山道界隈で『一本杉の仇討ち』として語り継がれた事件のあった場所です。
この事件は、万延元年(1860年)常陸国鹿島津の宮沖の船中で、水戸藩藩士宮本佐一郎と讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ斬り合いとなり、宮本佐一郎が命を落としたことに端を発します。
河西は、この斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった大老井伊直弼桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けました。そのため、居所が宮本佐一郎の息子である宮本鹿太郎の知るところとなりました。
鹿太郎は4年後の文久4年1月23日(1864年3月1日)に、西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の3人の後見人と共に、仏門に入ろうと不動岡総願時から江戸に向かう河西を、針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごと父の仇を討ちました。
その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方へ引き取られ、1月27日浦和宿にて幕府の取り調べが行われた後、小石川の水戸藩邸へ引き渡されました。事件は幕府最後の仇討ちとして、刷り物・はやり歌などで中山道界隈に広まり語り継がれていきました。
かつて、一本杉は樹高約18m、周囲約3mといわれ、松並木の中で一際ひいでた大樹でした。また河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られましたが、現在は北浦和にある廓信寺で供養されています。

平成24年
浦和区文化の小径づくり推進委員会」


その後も、いくつか目印というか、歴史的な物があるはずが、見付けられなかったものが幾つかありました。

16:57 さいたま副都心駅付近のけやき並木。
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そしてそのすぐ先、歩道に通せんぼするかのように立っているお堂。(16:59)
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こちらの写真はそのアップ。
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向かって右がお女郎地蔵。左が火の玉不動尊

さいたまCCI中央支部webより

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「お女郎地蔵・火の玉不動」
近代的な風景が広がる「さいたま新都心駅」東口近くの中仙道。
広い道路の歩道にポツンと不釣り合いな祠(ほこら)があります。
これが悲恋物語の「お女郎地蔵」とお化け伝説の「火の玉不動」なのです。
「お女郎地蔵」は昔、大宮宿の女郎に千鳥、都鳥という姉妹が居ったそうです。
この姉妹は二人以外に身寄りがなかったが美しく、街道筋の評判となっていた。
ある日姉の千鳥は恋仲による人情沙汰で、思い余って高台橋から身を投じてしまった。
それから間もなく高台橋辺りに人魂が飛ぶようになり、その霊魂を慰めるために「お女郎地蔵」が建てられたと伝えられています。
「火の玉不動」の名前の由来は、昔、夜な夜な高台橋に人魂が飛ぶのでその正体を突き止めようとした男が火の玉を切り付けたところ、誤って不動明王を切ってしまったことによります。
この二つの石塔は、高台橋の側にあったとされる下原処刑場の無縁仏の供養塔だそうです。

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暫く行くと、右に赤い鳥居が見えました。(17:08)
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武蔵国一宮、氷川神社の一の鳥居です。

11年前のブログより

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暫く歩くと、右斜めに入っていく、氷川神社の鳥居と参道が見えてきました。鳥居の手前には桜が咲き、参道はずっとけやき並木になっていて、とても気持ちのいい道でした。

実は、この参道も、参道を右にやり過ごしてまっすぐ行く道も、どちらも旧中山道なんだそうです。

氷川神社は、武蔵の国一の宮だったことから、この宿場町は大宮と名付けられました。

しかし、交通量が増えてくると、街道が神域を通ることは不謹慎、ということで、後に今のJR大宮駅の前を通る道が正式な東海道となったのだそうです。

気持ちのいい道なので、あっという間に感じるだろうと思っていたら、なかなか大宮駅へと曲がる角の目印の交番が見当たらない。

このまま延々と参道から抜け出せないのではないか…と錯覚を起こしそうでした。

やっと目印の交番を右に見て、左折すると繁華な駅前商店街に入り、JR大宮駅へと到着。

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このように、前回は氷川神社の参道を歩きましたが、今回は国道を歩きました。

17:14 道の左側に、加賀前田家屋敷跡。現在は、㈲西橋商事です。
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㈲西橋商事ホームページより

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《歴史》
橋本家の長屋門は、加賀藩100万石の江戸<現在 東大>裏門を解体、移築したものです。中山道に歴史の名残を感じさせる風格のある建物です。
※お近くへのお越しの際には、是非ご覧ください。旧中山道沿い吉敷町交差点そばです。

お気軽にご相談ください。

有限会社西橋商事

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17:15 塩地蔵尊・子育て地蔵尊
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案内板
「 塩地蔵尊 子育地蔵尊

旅の途中、病に倒れた父を救うため、二人の娘が、地蔵のお告げに従い塩断ちをした、という伝説が今に伝わります。」

大宮駅東口交差点を左折して、大宮駅に向かいます。

左に高島屋があり、外見も、出てきたお客様も、高島屋と言うよりは大型スーパーっぽかったのですが、扉が空いたときの匂いは、高島屋の匂いでした。

17:23 大宮駅
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明日は雨の中山道を歩きます。


2度目の中山道3日目の1(大宮宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/03/31/171838


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003