紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き13日目の1(浜松宿から舞坂宿)

2度目の東海道13日目の1

5月21日(火)の1


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【嵐の薄暗がりの中を行く】

東海道五十三次歩き、13日目は、とんでもない悪天候の中、幕を開けました。

夜行バスが到着した浜松のアクトシティから、県道257号線の成子交差点を目指したのですが、風雨のせいか全く進まず、約1時間さ迷ったところで、セブンイレブンで休憩。

5:03 静岡限定の天つゆまぶしおにぎりとR-1ヨーグルト、合計260円の朝食。
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それから、強風と大雨の中を頑張って歩き、菅原交差点に着いたのが5:16

暗い中、営業しているファミレスが灯台のようでした。
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10年前に来た時は、ここにはファミレスはなかったよな、と思ったら、10年前のブログを見たら、10年前もここにファミレスがありました。

このファミレスのある角に、子育て地蔵尊があります。
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10年前よりお地蔵様が増えた気がします。


【冠水と水飛沫の中の彷徨】

5:29 東海道本線をL字型にくぐりました。
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そして、森田町の歩道橋のところ。
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新幹線の橋をくぐるのですが、もしかしたらまっすぐ行くのが正解立ったのに、私が間違えて斜め左に行ってしまった、間違いの原因はここだったのでしょうか。

鎧橋を渡るはずが、いくら歩いても鎧橋がない。

他の小さな川の橋は渡りました。川が増水していて、いまにも溢れそう。

これはおかしいと思い、Google地図で、若林一里塚はひっかからないので、ちょっと西になりますが、可美小学校を、検索してみたら、私が正規の東海道ルートよりもかなり南側に来すぎていることが解りました。

北西目指して歩いたのですか、途中、田んぼの中の道が冠水していたり、通りすぎる車に水しぶきかけられたり、ポンチョ、レインズボン、長靴の重装備で大正解でした。

傘は、長い傘だと折れたかもしれないので、折り畳み傘が正解でした。

ガイドブックを見たり、スマホで写真を撮るのに傘は必要です。

ポンチョはまくれあがって、PV撮影のためにわざと風を送っている(TMレボリューションのホワイトブレスみたいな)衣装みたいに膨れ上がって大変でしたが、かといってレインコートだと、ウエストバッグが濡れちゃうし。

モモンガみたいじゃなく、袖があって、
腹と背の辺りが膨らむ、そういうポンチョがあるといいなあ。

途中、スマホが鳴ったと思ったら、どこぞの地域は避難準備してください、というのが送られてきました。

水の塊の重さを感じました。

足が、何かを蹴るけれど、蹴ったものが雲散霧消。

凍らせていない保冷剤か、いやいや、あれですよ。金魚を入れるために、ビニール袋に水を入れる、あれだ!

あの水袋を蹴ったら重いのに、水溜まりは蹴られると消える。

あの不思議な感覚を何度も味わいました。

思った以上に水溜まりが深くて、長靴の中に水が入りました。

途中、スマホの6:30のアラームが鳴り、今まで一般の方が寝ている時間帯でしたが、遂に一般の方が起きて通勤通学の支度を始める時間になってしまいました。

多分ここが東海道の正規の道と思われるところにやっと戻り(松並木があって嬉しかった)、セブンイレブンで休憩したのが7:12

かなり彷徨していたなあ。

セブンイレブンでは、くりいむわらび108円、青汁108円で休憩。
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【麦飯長者】

セブンイレブンを出て少し先に若林バス停があったので、ここが正規のルート、県道257号線であることを確認。

7:23 浜松市可美村合併記念碑
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この碑は、可美小学校南側、県道に面したところにあります。

この後、浜松領界石や、堀江領界石跡があるはずなのですが、風雨に翻弄されて見つけられませんでした。

その先、JR高塚駅の南側に、高札場跡・秋葉燈籠跡。7:40
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説明板
東京国立博物館に所蔵されている東海道分間延絵図(のべえず)によると、当時の高塚には、高札場が秋葉燈籠の東側(現在の小野田線平氏宅)付近にあった。江戸時代には、どこの村にもそれぞれ高札場があり、木板の札を村の中心で人目にたつところに建て、切支丹禁制、火災防止、徒党を組むことの禁止、犯罪人の罪状などを書いて村人に布告を撤退させた。

平成二十六年九月
可美地区自治会連合会 」


さらに、そのすぐ先に、麦飯長者跡がありました。
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案内板
「 昔、高塚に、小野田五郎兵衛という長者がおり、明治維新(一八六八)のころまで、誰彼の区別なく街道を行き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を食べさせていた。いつとなく麦飯をくださる長者様ということで、「麦飯長者」といわれるようになった。
五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の姓が降され、村役人、庄屋を務めた。そのため、小野田家は代々五郎兵衛を名乗ってその歴史を今に伝えている。

平成二十六年九月
可美筑後自治会連合会 」


そろそろ、小中学生の登校時間。

この風雨ですから、親が送ってくる家が多いけれど、中にはこどもだけで歩いてくる子も。

この風雨だと、神奈川県だと休校になりそうなんだけどなあ。

【立場跡と一里塚跡】


8:02 立場跡
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案内板
「 立場跡

立場は、慶長六年(一六〇一)に宿駅伝馬制度ができた時に、宿場と宿場の中間の休憩の施設として設けられました。
ここは、立場本陣とも言われ、大名等、身分の高い人達が多く休憩しました。明治元年(一八六八)に明治天皇が御小休されたという記録「御東幸御小休帳」や文化年間の「御大名様御小休帳」が残されています。
筋向かいには道中案内記にも載っている茶屋「浅田屋」がありました。現在この辺りの地名は、立場といいます。

篠原地区自治会連合会 」


8:08 篠原一里塚跡
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案内板
「 一里塚跡(日本橋より六十七里)

徳川幕府は慶長四年(一六〇四)東海、中山、北陸の三街道に方五間(五間四方)の一里塚を築くことを諸大名に命じました。
江戸日本橋を起点とし、一里(三十六町、約四キロ)毎の街道の両側に一里塚が築かれました。
東海道宿村大概帳に、「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されています。左側とは南、右側とは北を指す。
当時の旅人は一日十里(約四十キロ)を歩くのが普通であったといわれていました。

篠原地区自治会連合会 」

10年前に撮った篠原一里塚の案内板
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リニューアルされたんですね。

今回歩いていて、10年前よりリニューアルされて読みやすくなったもの、新設されたものもあったし、逆に、当時はちゃんと読めたのに、雨ざらしで読めなくやったもの、そして、工事などで移転したり、なくなってしまったものもあります。

【3ヶ所の高札場跡】

篠原地区自治会連合会が作成した高札場跡の案内板、私が見つけたものは3ヶ所ありました。

3つの高札場跡の説明は、内容が大半重複していますが、最後の方はそれぞれオリジナリティーを出しています。

3つの共通内容。

「 藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または目立つ場所に高札場を設けました。
高札には、親孝行、忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものと、キリシタンや徒党の禁止などがありました。
高札の文面は簡潔で庶民にもわかりやすい仮名まじり文が用いられました。
明治政府も高札を使いましたが、明治六年(一八七三)太政官布告をもって廃止されました。 」


この、共通内容の後に、3ヶ所それぞれのオリジナル内容が書かれています。

札木の高札場
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「高札のあったこの辺りは、札木という地名です。」

坪井村高札場
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「近くの元庄屋にはキリシタンノ布太などの高札が永年保存されていました。」

写真3 馬郡村
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「このすぐ近くには『札木さ』と呼ばれている家があります。」


【清正信仰】

激しい風雨の中、何度かスマホが鳴りました。

どこどこの地域は、河川増水のため、避難準備を始めてください。という、これがアラートなのかな?

自分の住まいの地域ではなく、今私がいる近くの情報が流れてくるわけですね。

大人の私が歩くのがかなり大変なのに、登校しているこどもたち、頑張れ!

親が付き添ったり、車で送ってきている人もいましたが、こどもだけで歩いていたり、こどもだけでバスを待っていたり、大丈夫なんだろうか。

休校にするとか、登校時間を遅くするとか、すればよいのに。

9:01 清正公三百年祭記念碑
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東本徳寺前に、髭題目と清正公三百年祭記念碑が立っています。何故、浜松に清正公?

後で調べたら、清正公信仰の論文が出てきて、とても全文は読みきれませんが、清正公三百年祭の頃(明治43年)は、加藤清正は軍人の手本とされ、軍人や教育者の中にも清正信仰が広まった、というより根強かったようで、全国で記念祭が行われたらしいのです。

9:04 海中出現釈迦牟尼仏安置の碑
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こちらは西本徳寺の前に、髭題目碑と共に立っています。

西本徳寺本堂には、海中出現の釈尊の立像が祀られているそうです。

寺伝によると、鎌倉時代の仁治2年(1241)4月8日、遠州灘の浜において漁師の網に釈尊立像がかかって引き上げられたとそうです。

風も雨も強いので、片手で飛ばされないように傘をがっしり持ち、片手でスマホのシャッターを押すのはかなり大変な作業です。

スマホをしまうときには、ハンカチで拭いてから、ポンチョの中にしまいこんだウエストバッグにスマホを入れて、ポンチョのジッパーを締めます。

なので、今撮ったものが重要な写真なのかなどよく考えて撮ったわけではなく、とりあえず撮ったものですが、そこまでして撮った写真は、私にとっては貴重です。


春日神社は左右に鹿】

9:08 春日神
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今日は鳥居の前を通りすぎましたが、10年前は境内の見学をしました。

10年前のブログ

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大きな神社で、本来は水が張られていると思われる丸い大きな穴があったり、狛犬の代わりに鹿がいてびっくりしたり。向かって右側が牡鹿。左側が牝鹿。

春日神社はいろいろ見学していて、6分滞在しました。

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2度目の東海道13日目の2(舞坂宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/24/231339