2度目の東海道11日目の6
5月2日(木)の6
【大池橋と秋葉街道】
13:18 成田山
明治10年頃、成田山新勝寺から勧請した不動明王が祀られているそうです。
13:29 大池橋(倉真川)
案内板
「 大池橋と秋葉街道
大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ二十九間(約52m)、幅三間一尺(約5.7m)余りの土橋と記されています。東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。秋葉山へは、ここから九里(約35Km)余りの道のりです。
常夜灯は、明和六年(1769)に、鳥居は安永九年(1780)に建てられたものです。この鳥居と常夜灯は、嘉永七年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。
東海道は鳥居の手前で左に折れます。」
13:39 白山神社
【蓮祐寺・大池一里塚跡】
13:47 蓮祐寺・大池一里塚跡
江戸より五十九里目の一里塚。北側は大池村地内。南側は長谷村 地内で、松が植えられていたとそうです。松は両塚とも明治10年(1878)に伐採され宅地化されています。
写真は、蓮祐寺
13:51 松林
13:59 曽我鶴酒造
14:01 高架を潜る
高架を潜って左に曲がり、暫く国道1号線のバイパス沿いに行き、写真の分岐で右へ。
14:09 左にキリスト教会が見えます。
【善光寺橋】
14:11 善光寺橋(垂木川)
掛川市HPより
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善光寺下は土地が低く、長雨にあうと排水が悪いうえに垂木川が氾濫して東海道が冠水し、川越人足が駆り集められたり、舟渡ししたりすることもあったようです。
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【仲道寺と市境】
14:13 善光寺(仲道寺)
掛川市HPより
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仲道寺
東海道 の中間点に位置したため、仲道寺とも呼ばれるようになったそうです。境内には如来堂があり、その阿弥陀仏は坂上田村麻呂の守本尊と伝えられています。
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ふじのくに文化資源データベースより
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仲道寺
旧東海道の中間点に位置
仲道寺(ちゅうどうじ)は、享保18年(1733年)に掛川市高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺の境内に堂を建立したことに始まると伝えらえています。
寺名は、その昔、江戸から京都までを測量したところ、ちょうど東海道の中間地点に位置したことからその名が付いたと言われています。
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写真のような松林もあり、
やがて、掛川市と袋井市の市境の原野谷川を同心橋で渡るのですが、この辺りの道が複雑なため、写真のような立て札がありました。
この立て札の写真を撮って、これを見ながら歩きました。
立て札の写真を見ながら、写真の道は突き当たりで左へ、
橋の下を潜り、橋の左側へ回り込みます。
写真の、同心橋の左側の歩道を渡ります。
渡りきると、左斜めへの分岐で旧道へ。
【名栗・花茣蓙公園】
名栗の道標
雨風に晒されて字が読みづらくなっていますが、名栗と書いてあります。
14:30 名栗 花茣蓙(はなござ)公園
小さな公園ですが、トイレ、ベンチがあり、一休み。
江戸時代には、旅人が休息する場所として知られ特に花茣蓙(はなござ)で有名だったそうです。
「東海道中膝栗毛」には、旅籠もあり名物花ござを売る店が軒を連ねるほど繁盛していた、とあります。
また、 東海道中膝栗毛では
「旅人の 見えかくれする 並木道
瀬川のほとり 花ござの里」
と詠っています。
こちらの写真は、花茣蓙公園付近に張られていた名栗立場の絵、写真を撮ったのですか、上のほうが切れてしまったので、Webサイトから拾ってきました。
この絵に、公園近くにあった絵には、このような解説がついていました。
「 旅人向けの手軽な出茶屋と、のどかな田園風景。駕籠屋が火を借りて一服つけよつとしている。腰掛けた旅人は道中差しを着けたまま休息を取っている。」
【名栗の花茣蓙】
写真1は、休憩する旅人に立場の中居さんが花茣蓙を見せている絵です。
右にはこのように書いてあります。
「 名栗の花茣蓙
文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し 軒を連ねた通りをすぎ 瀬川を渡れば早名栗 松並木を西に見て立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓、ここは袋井の宿までの合いの宿 旅籠屋のあり 名物の花ござを売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が珍しいと買って行く」・・・
旅人の 見えかくれする 並木道
瀬川のほとり 花ござの里 」
この先、松並木の脇が一段低くなって歩きやすい道です。
これはたぶん、側溝を塞いで、通学路にしたのではないかと思います。
【赤鳥居と妙日寺】
14:46 赤鳥居
案内板
「 富士浅間宮赤鳥居
赤鳥居と呼ばれ親しまれているこの鳥居は、東海道分間延絵図にもその姿が描かれ、天正十八年(一五九〇)に地頭の本間源三郎重泰 が建立し、寛永十五年に北条氏重が現在の地へ移築した冨士浅間宮本殿(重要文化財)への参道の入口に建っています。現在は鳥居と社殿までの間に国道や東名高速道路が通り、周辺には多くの工場が立ち並んでいますが、江戸時代には赤鳥居から木々の間に社殿を見通すことができたようです。
平成ニ七年六月二十二日
袋井市教育委員会 」
14:56 妙日寺
妙日寺 wikipediaより
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妙日寺(みょうにちじ)は、静岡県袋井市広岡にある日蓮宗の寺院。山号は貫名山。旧本山は身延山久遠寺、鏡師法縁(善学会)。遠州七不思議のひとつ片葉の葦で知られる。柳生宗矩寄進の五輪塔がある。
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【ど真ん中】
14:57 久津部一里塚跡(写真1)
ふじのくに文化資源データベースより
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久津部一里塚
東海道60番目の一里塚
一里塚とは、街道の側に1里(約4キロメートル)ごとに旅人の目印として土を盛り上げてつくった江戸時代の塚。久津部(くつべ)一里塚は、江戸から60里にあたります。現在、塚は残っていませんが、地元の袋井市立東小学校創立100年を記念して、同校敷地内に一里塚跡碑が建てられています。街道沿いに建っているため、いつでも気軽に見ることができます。
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袋井宿は、東海道五十三次のど真ん中、27番目の宿場であることを売りにしていて、駅もどまん中駅、小学校も袋井市立東小学校をどまん中東小学校とニックネームをつけています。
どまん中東小学校(袋井東小学校)正門。
【七ツ森神社 蛇身鳥伝説再び】
15:01 秋葉常夜燈
15:03 法多山道標
「 従是下貫名ヲ経テ法多山に通ズ」と刻まれています。
15:14 七ツ森神社
案内板
「 史跡 七ツ森神社
七ツ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩士高力猿猴庵 が天明六年(一七八六)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれています。
その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七つ森神社です。
この七つのつか(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。
神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺に久努、久野、久能そして国本などの地名が見られます。久努国造の名を記した扁額が納められていたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。
平成一〇年三月ニ五日
袋井市教育委員会 」
【三尺坊と、スズキ化石資料館】
15:19 是より可睡三尺坊道
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東海道一の禅の修行道場である可睡斎は悠久六百年の歴史を刻む、徳川家康公が名づけた古刹。現在は、曹洞宗・専門僧堂として多くの雲水(修行僧)が修行をしております。
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「神道 神代」サイトより
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秋葉大権現(火を防御する守護神)と同一視され、秋葉山の守護神として知られるのが、天狗の三尺坊(さんじゃくぼう)です。三尺坊は、もとは戸隠で修行し、ついで越後の道場で荒行をしたのち秋葉山に来山します。神通不思議の妙力を得て、生身のまま天狗となって白狐にまたがり、飛行昇天したといわれています。
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15:23 スズキ化石資料館
2012年4月30日 中日新聞より
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袋井の鈴木さんが化石資料館オープン 貝中心に5000点展示(中日新聞)
「32年にわたって化石の収集や研究をしている袋井市新屋の鈴木政春さん(63)が、同市国本の旧東海道沿いに「スズキ化石資料館」をオープンさせた。地元の化石を中心に約5000点を展示」
鈴木さんが作った資料館は、化石倉庫にしていた旧宅を改修。併せて昭和の雰囲気が漂う憩いの部屋もつくったとのこと。有志の方々がボランティアで運営を手伝い、見学は無料。
予約は鈴木さん:電話0538(42)4767。
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シロウリガイも展示されているそうです。東海道を歩く人の憩いの場にも、とありますが、予約が必要だそうです。
2度目の東海道11日目の7(袋井宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/23/211620