2度目の東海道7日目の6
4月5日(金)の6
【女体の森!?】
橋を渡ると、写真の階段を降ります。
写真のような静かな道を行きます。
15:19 女体の森 宗像神社
女体の森って、なんか驚きましたが、 女体の森は興津周辺が深い霧に包まれても、森の頭頂部が霧から出ていたため、海に出ている漁師さんたちの目印になったといいます。この森の中の宗像神社に祀られている神さまが女神であるために
「女体の森」と呼ばれるようになったそうです。
そして、この女神さまが興津の地名にもなったといいます。
ご祭神は宗像三神です。
宗像三神とは奥津比売命、狭依姫命、多岐津比売命 。
この中の、奥津比売命(オキツヒメノミコト)が興津の地名由来になったそうです。
【興津宿】
15:22 題目碑
15:24 興津の一里塚跡
日本橋から41番目の一里塚跡
15:40 興津宿公園
【脇本陣水口屋】
15:43 水口屋脇本陣跡
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【脇本陣水口屋】
水口屋(みなくちや)は、旅館業を昭和60年に廃業し、今は企業の研修センターになっていますが、平成11年に敷地内にオープンした「水口屋ギャラリー」に水口屋の資料が展示されています。
水口屋ギャラリーの受付の女性が声をかけてくれて、「10時オープンなんですけど、よかったらどうぞ」
まだ9:25分なのに招き入れてくれました。
掃除の最中でした。
水口屋ギャラリーは入場無料。靴を脱いで上がり、入り口で記帳して、応接間のソファーに荷物を置かせていただき、資料もいただきました。
昔の、興津に別荘が沢山あった頃の写真が並んでいて、私はここの展示の中でも、古い写真に一番興味をもちました。
私がちょうど眺めていた写真の場所は、今はマックスバリューになっている、と、教えてもらいました。また、西園寺公望の別荘、坐漁荘(ざぎょそう)は、明治村に移転、保存されていますが、二代目坐漁荘が忠実に復元され、公開されているそうです。
旅館だった頃、泊まった有名人の名が連ねられていました。
夏目漱石、志賀直哉、伊藤左千夫、有島生馬…一番最後に、昭和天皇皇后両陛下が書かれていました。
展示物の中にも、両陛下が使われた青磁の食器、出された料理の写真もありました。
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15:44 興津宿西本陣趾
【清見寺】
15:50 清見寺
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まず山門があり、山門と境内は東海道線で分断されているので、右側の興津案内板の方から回って、東海道の踏切を渡って上りました。
下から見えた立派な鐘楼がまず見えます。境内からの海の眺め、道路ができる前、さらに埋め立てられる前はどんなに美しかったでしょう。
清見寺の境内に、「見学ご希望の方は受付を入って鐘を鳴らしてください」と書いてありましたが、境内を見るだけなら自由に見ていいんだろう、と、見ていました。
家康手植えの臥龍梅(がりゅうばい)、芭蕉句碑、与謝野晶子歌碑もありました。
家康手植えの梅、臥龍梅
また、山下清の「清見寺スケッチの思い出」よりという文章が立て札になっていて、これが面白い。
山下清「清見寺という名だな この寺は 古っぽしいけど上等に見えるな お寺の前庭のところに汽車の東海道線が走ってるのはどうゆうわけなんだろう お寺より汽車のほうが大事なので お寺の人はそんしたな お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいだと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」
お寺の境内の古ぼけたベンチに座って、今朝清水のコンビニで買ってきたおにぎりを食べました。
この寺、好きだな、と思いながら階段を降りましたが、この寺を好きな理由は、山下清の文章のおかげかも。
帰りがけに、水口屋の受付さんに勧められた宮様まんじゅうを買いました。
水口屋から駅側数軒先にある潮屋という店で、宮様まんじゅうはとっても小さくて(1~2口でパクリッのサイズ)、20個入り525円、宮様まんじゅうを揚げた揚げまんじゅうが9個入りで200いくら、両方で、千円でおつりが来ました。
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【高札場跡ではなかった】
15:52 高山樗牛仮寓之処
その横にこちらの写真の、お寺の入口によくある教え、なんでしょうかね。
10年前はこちらの写真で、私はてっきりこれは高札場跡かと思っていました。
【坐漁荘】
15:54 坐漁荘
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【坐漁荘】
水口屋ギャラリーで、朝九時半から開いていると教えられてやって来た坐漁荘。
受付には誰もいませんでしたが、声をかけたら出てきてくれて、パンフレットをもらいました。ここも入場無料です。
靴を脱いで上がり、受付の方が奥に声をかけてくれて、奥にいるボランティアガイドさんが説明してくれるとのことでした。
最初に記帳をして、説明を聞きましたが、ガイドさんは新人なのか、あまりよく知らないので、ご自由にどうぞ、と言われ、えっ、と思いましたが、少しだけ、説明してくれました。
縁側から見える庭の先、数段低い場所にグラウンドがありますが、昔はグラウンドの所まで海だったそうです。今はグラウンドのさらに先に道路が通り、その向こうに海が見えましたが、埋め立てられてしまったのだそうです。
すぐそこまで海だった頃は、さぞかしこの庭が美しかっただろうなあ。
庭の向こうは防波堤の石垣になっていて、庭に座って長い釣竿で魚釣りができたことから坐漁荘という名がついたそうです。
二階からの景色がよいこと、一階の縁側の先にサンルームがあること、隣の部屋の棚に並べられている資料は好きなものを自由に取っていいこと、それだけ説明されました。写真は撮っていいそうです。入り口に館内飲食禁止と書いてあったので、本当は持参のおにぎりを食べたかったけれど、我慢しました。
サンルームの隣は洋風応接間。
そういえば、さっきの水口屋で、西園寺公望はしょっちゅう興津に来ては水口屋に泊まっていて、やがて自らの別荘を建てて、興津の人になった、と書いてありました。
逆にここで聞いた話から、海が埋め立てられて景観が悪くなったことが、水口屋が旅館を廃業するに至った原因のひとつではないかと推察されます。
二階に行くと、上がった所の廊下が鶯張りになっていました。
それぐらい説明しておいてほしかった。キイキイ言うからドギマギしちゃいました。
鶯張りは、防犯のために用いられたようで、廊下の床が二重構造で、下側の木材が厚め、上が薄めになっていて、上下の木材をつなぐくさびに遊びをもたせることによってきしむそうです。
二階からは確かに景色はよいけれど、海側の景観は道路に遮られているから、庭が見える一階からの眺めの方が、私は好きです。
外壁に檜皮を使ったり、一見質素に見えますが、贅沢な建物だと思いました。
庭も見学して、坐漁荘を出ました。20分ほど見学していました。
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【夜と昼の興津】
10年前には、実は興津に2回来ています。
薩た峠を越えてきた日は、夕暮れから、やがて真っ暗になってしまい、ほとんど何も観ることが出来なかったので、後日もう一回来て、朝の内に水口屋や坐漁荘を見学しました。
最初に来た暗かった興津についての10年前のブログ
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【街頭が少ない街】
興津の町はかなり薄暗い中、ぐんぐん歩きました。
街頭が少なくて、東京や神奈川ではこんなに暗くはない、と驚きました。
暗い町の中、写真の米屋の灯りは目をひきました。
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この、米屋は来る度に写真を撮ってしまいます。
【江尻宿へ向かって】
16:00 静清バイパスの下をくぐり、
橋を渡ったら、左の静かな道に入ります。
16:03 小長井家邸宅の前を右折。
16:06 横砂踏切を渡る
16:08 延命地蔵尊
16:21 名残の松
さすがはお茶処。茶飴も美味しそう。
16:33 ローソンでトイレ休憩
16:38 津島神社
16:46 分岐(辻町)
旧道に入ると、写真のような格子の美しい家がありました。
やっと江尻宿の名を見ました。
16:56 江尻東交差点
ここが本日の最終地点。
近くのホテルに泊まります。
本日の歩数 42,323歩 25.8km
2度目の東海道8日目の1(江尻宿〜府中宿)に続く
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