紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

山本周五郎生誕の地

大月市観光協会ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓【山本周五郎について】 人情味あふれる歴史・時代小説の巨匠『山本周五郎』は、 1903年(明治36年)に大月市初狩町で生まれました。 地元でみどう屋敷と呼ばれた長屋に住んでおりました。 周五郎の名付け親は長屋の…

重要文化財 星野家住宅

案内板 「 重要文化財 星野家住宅 籾蔵 味噌蔵 文庫蔵及び家相図 昭和五十一年五月二十日 指定 星野家は甲州街道下花咲宿(現在大月市大月町花咲) にあって、江戸時代に本陣、庄屋、問屋をつとめた旧家です。 現在の主屋は天保六年(一八三六年)に焼失した後、…

駒橋 厄王大権現 平和祈願の石と説明碑

説明碑 「昭和二十年八月十三日午前八時三十二分米軍艦載機は突如大月町を襲い山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた この時投下された爆弾の一つは桂川で爆発しその爆風は一、五トンの石をふき上げ百余米の高さに達したという 附近は国道沿いの人家密集…

千鳥姫の稚児落とし伝承

senjp.comより千鳥姫は小山田信茂の側室であったとされ、織田勢の大軍に岩殿山城を包囲されると、千鳥姫の子でまだ赤子の万生丸と、小山田信茂の2男・小山田賢一郎を連れて脱出を計画。護衛として小幡太郎と城兵が共に岩殿山城の西尾根を辿り城外に脱出したと…

三猿塔の由来

案内板 「 三猿塔の由来奈良朝の昔、此の辺の交通は至極難渋であって、警告を渡る事などは思いもよらなかった。 茲に桂川渓谷は、奥は小金沢から大菩薩峠に続く大幽谷で、当時此の辺は老樹うっそう昼なほ暗き原始林に覆われていた。猪や鹿、ことに山猿は群れ…

名勝 猿橋

案内板 「 名勝 猿橋 昭和七年三月二十五日指定 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば『昔、推古帝の頃(六〇〇年頃)百斉の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓を よじ、断崖を渡るを見て橋を造る』とあり、その名はあるいは白癬(しら…

「猿橋の旅宿にて」

案内板「猿橋の旅宿にて」(明治三十九年) (日立製作所史より)七月十五日であった。余は(渋沢元治氏当時逓信技師)山梨県の甲府付近にある水力発電所を検査することを命ぜられ、飯田橋から甲府行きの汽車に乗った。ところが車中偶然に同窓の小平浪平君に会った…

韮崎宿 一橋家陣屋跡

案内板 「 一橋家陣屋跡 一橋家は八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)がおこしており、延亨三年(一七四六)九月に本県の治領地 三万四四石余が与えられた。 陣屋は頭初双葉町宇津谷(村)に構えていたが、宝暦三年(一七五三)にこの地に陣屋を移した。その後寛政…

船形神社の石鳥居

案内板 「 山梨県指定有形文化財(建造物) 船形神社の石鳥居一基所 在 地 甲斐市 志田 三番地 指定年月日 昭和三十四年二月九日この鳥居は『明神鳥居』と言われる形式で、高さ一・五三メートル、昼間は二・三五メートル(真々)、柱の最大径はO・四五メートルの…

甲斐市 泣石

案内板 「 泣石 下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城する…

上石田のサイカチ

案内板 「 甲府市指定有形文化財・天然記念物 上石田のサイカチ所在地 甲府市上石田一丁目 管理者 甲府市上石田一丁目北部自治会 指定昭和四十三年六月十二日過去にさかのぼると、この地は貢川の河川近くであったが河川は整備され今のような市街地となった。…

恋塚一里塚

案内板 「 山梨県指定史跡 恋塚一里塚 指定 平成十四年七月四日 所在地 上野原市犬目一三五三番地 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に1里(約4㎞)ごとに築かれた塚の一つで、江戸日本橋から二十一番二十一里にあたります。 塚は原形をよく残しており、直径…

犬目宿のいわれ

案内図の左下の「犬目宿のいわれ」「犬目宿は、一つの村が『宿』そのものになった形と考えられます。 言い伝えによれば、正徳2年(1712)、現在の集落より600mばかり下方の斜面(元土橋 もとどばし)にあった部落が、急遽そのまま現在の所に移住し、その翌年、宿…

上野原市指定史跡 矢坪坂の古戦場跡

案内板 「 上野原市指定史跡 矢坪坂の古戦場跡指 定 昭和52年12月22日 所在地 上野原市大野矢坪一帯 大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂 と言い、昔は、山腹と崖との間を道が入り組む要害の地でした。 享禄3年(1530)4月23日、甲斐国の郡内領主で…

野田尻宿案内板

案内板 「 野田尻宿 野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の形態で宿を構成した。天保14年(1842)には、本陣1、脇本陣1、旅籠は大2、中3、小4計9の小さな宿であった。蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も昔の屋号が残っている。もちろん職業…

野田尻週 お玉井戸

お玉井戸山梨県上野原市野田尻が宿場として栄えていた昔、大椚から入る所に長峰の池という池があり、風趣に満ちていた。その頃、野田尻宿のえびす屋という宿屋にお玉という美しい女中がおり、近在の若者たちのあこがれの的だった。おかげでえびす屋は大賑わ…

発掘調査された長峰砦跡

案内板 「 発掘調査された長峰砦跡 所在地 山梨県上野原市大椚 長峰砦跡は、やや小規模な中世の山城跡です。一説によると、武田信玄の時代に上野原を治めた加藤丹後守景忠が築いたといわれ仲間川対岸の大倉砦と連携し、東から侵攻する外敵に備えたと考えられ…

「長峰の史跡」説明版

案内板 「 『長峰の史跡』説明板上野原町大柄所在 上野原町教育委員会設置『長峰』とは商ヶ崎(鶴川部落の上)から矢坪に至るまでの峰を指す呼び名ですが、戦国時代に上野原の加藤丹後守が、その出城というべき培をここに築いたことから、いつかこの付近だけを…

上野原市指定文化財 大椚の一里塚跡

案内板 「 大椚の一里塚跡指 定 昭和47年3月22日 所在地 上野原市大椚字大浜167番地付近 説 明 一里塚 は、江戸時代、江戸日本橋を基点にして五街道の一里ごとに目印のため作られた塚であり、塚の上にはエノキ・松・ケヤキなどが植えられました。当時は、街…

木食白道上人加持水井碑

木食白道上人加持水井碑上野原町史より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓白道上人加持の井戸上野原町上野原3804番地の1中村辰男方この井戸は、寛政9年(1797)に掘られたが、次の言い伝えがある。当時上野原地区原部落には8軒の家があったが、近くに水源がなく、水には…

上野原市指定史跡 塚場一里塚跡

案内板 「 上野原市指定史跡 塚場一里塚指定 昭和四十五年三月二十日 旧上野原町指定 所在地 上野原市上野原10一三番地 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に一里(約四キロメートル)ごとに築かれた塚の一つです。江戸日本橋から十八番十八里にあたり、甲斐国(…

諏訪番所跡

案内板 「 諏訪番所跡一、名称 諏訪番所(甲斐二四関の一)、境川番所・境川口留番所とも呼ぶ 一、所在地 上野原市諏訪木のはけ二十番地 ・宝永四年(一、七〇七)諏訪神社東より番組所坂上に移転 一、番所屋敷 一畝二十八歩 高二斗三升三合 前采場 下々畑 二畝…