紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2022-03-01から1ヶ月間の記事一覧

力士追手風喜太郎

案内板 「 力士追手風喜太郎 追手風喜太郎は、寛政11年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、幼名を「松次郎」と言いました。 その生家は、現在もこの寺近くにあり、佐藤博文氏が当主として守っております。 松次郎が力士への道を歩むようになったのは、…

小猿橋

案内板 「 小猿橋 小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあり長さ十四間(約二十五m)幅二間(約三・六m)高さ五丈八尺(約二十五 m) の綱千付きの板橋でした。この橋は、山梨県大月市の猿橋と工法も 形も同じで、その規模が少し小さいことから『小猿橋』と呼ん…

吉野本陣

案内板 「 吉野本陣 此処、藤野町吉野238番地吉野家は、江戸時代甲州街道吉野宿本陣・名主であり、現在でも屋号を「本陣」と呼びます。吉野家の由緒は弘安年間に遡り、承久の乱(1221年)の時、一族は天皇方に従い、宇治勢田で北条義時を討ったが闘いに敗れ…

小原宿本陣

案内板 「 ◼️小原宿本陣 徳川幕府により整備された五街道のひとつ甲州道中。 道中沿いに開けた宿場町のなかで 「小原宿」は往時 この様子を知ることのできる貴重な町並みを残してい ます。 かつて街道に人々が行き交った時代に思いをはせ、旅人たちの見た風…

照手姫ものがたり(美女谷)

案内板 「照手姫ものがたり 美女谷伝説(相模湖町底沢) 浄瑠璃や歌舞伎で知られている、『小栗判官と照手姫』の物語。 照手姫は、小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来になったとも言われています。 北面の武士だったという父と、やさ…

国指定史跡 小仏関跡

案内板 「 国指定史跡 小仏関跡 所在地 八王子市裏高尾町四二〇番地の一外 指定年月日 昭和三年一月十八日 小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅びると麓に一度移され、その後、北条氏の…

国史跡 小仏関跡

案内板 「 国史跡 小仏関跡 指定年月日:昭和3年1月18日 指定面積:1,531.00㎡小仏関所絵図 この絵図は、関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたものです。残念ながら、戦災により焼失し、現存していません。 小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西…

歩道橋愛称「追分いちょう橋」の由来

案内板 「 歩道橋愛称『追分いちょう橋』 の由来 この歩道橋は、 元々二つの歩道橋に分かれていたものを、歩行者や 自転車がより安全に通れるようにするため、地元の皆様の要望を受け、 平成23年10月に工事を始め、 平成29年3月に完成しました。 愛着を持っ…

市守大鳥神社 由緒

神社紹介サイト「神社と御朱印」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓御由緒:1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原討伐において八王子城は落城し、当地を所領としていた後北条氏が滅亡する。 その後江戸に移封となった徳川家康は、八王子を甲州方面に対する軍事拠点と位置づけ直轄…

日野宿脇本陣跡

案内板 「 東京都指定史跡 日野宿脇本陣 日野宿は甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には日野本郷の名主と日野宿問屋役人を兼帯して世襲する2軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤」)…

日野の渡し碑

碑文 「 日野の渡し碑 立川観光協会 撰 関 頑亭 書日野の渡しの出来たのは いつの頃だか誰も知らない 江戸時代中期貞享年間 この地に渡しが移されたことは 確かであろう かつて信濃甲斐相模への人々は この渡しを過ぎると 遠く異境に来たと思い 江戸に向かう…

立川市柴崎市民体育館脇の案内板

案内板 「歴史と文化の散歩道 矢川から多摩川方面を歩くコース 旧甲州街道 この体育館の脇を通っているのが昔の甲州街道です。江戸時代に幕府が主要な街道として整備した五街道のひとつで、江戸と甲州を結び、甲州道中とも呼ばれました。 街道はここで多摩川…

元青柳村の常夜燈

案内板 「 元青柳村の常夜燈常夜燈は『秋華燈』とも呼ばれ、江戸時代 に村を火の事故から守るために、油屋近くに 建てられたものです。火伏せの神を祀る秋承 神社(浜松市)への信仰です。 この常夜燈は市内に残る三つの常夜燈のう ちの一つで、竿(塔身)には、…

国立市 登録有形民俗文化財 青柳地蔵堂

国立市ホームページより青柳稲荷神社参道入口の地蔵堂には、地像菩薩3躯、六地蔵11躯が安置されています。その内、元文4(1739)年造立の地像菩薩1躯と、天明3(1783)年に造立されたことが判明している1躯を含む六地蔵6躯は国立市登録有形文化財になっています…

国立市 五智如来

五智如来 くにたちNAVIより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓甲州街道と矢川が交差する橋の北側に、市登録有形文化財のひとつ、五智如来と呼ばれる石造物があります。五智如来は、大日如来を中心として東方の阿しゅく如来、南方の宝生如来、西方の阿弥陀如来、北方の不空成就如来(…

潤澤学舎跡

案内板 「 潤澤学舎跡潤澤学舎は、国立第一小学校の前身です。 明治五(一八七二)年八月に学制が制定 され、各村に学校の設置が義務付けられる と、翌年九月二十五日、青柳村で私塾を開 いていた杉田吉左衛門氏を首席(校長のこ と)とし、この地に開校されまし…

関家かなどこ跡

案内板 関家かなどこ跡 関家は、鋳物三家(矢澤、森窪、関氏)の一家と言われ、江戸時代から明治初期まで鋳造を業としておりました。 梵鐘、仏像等の他に鍋釜などの日用品を製造しており、鋳物三家の銘のある梵鐘には、立川普済寺、府中高安寺、日野牛頭天王…

史蹟 獅子宿

石碑文 「 史蹟 獅子宿当初天満宮宝物獅子三基は、天暦元年村上天皇より賜ったと伝わる貴重な文化財である 当初京都より勅使が参向し仮屋に於いて稽古を行い菅公の御命日に社前にて舞を奉納し御神霊を御慰め申上たと伝えられる その後氏子中に伝授され今日ま…

棒屋の坂

案内板 「 棒屋の坂(ぼうやのさか) 坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称『棒屋』と呼ばれたためといわれています。 この道は、徳川家康が江戸幕府を開いてから開設された甲州街道 です。江戸幕府にとっては軍事的・経済的に重要な街道でしたが、府中…

片町

碑文 「 片町 片町(かたまち)は、現在の片町一・二丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。 この集落は番場宿に属しており、幕末の地に誌『新編武蔵風土記稿』には、番場宿の小名としてその名が見えます。 片町は、徳川家康が江戸に入城後…

番場宿

碑文 「番場宿 番場宿(ばんばしゅく)は、現在の宮西町二・四・五丁目の一部(旧甲州街道 沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場は、もとの名を茂右衛門宿 といいます。これは、この土地が名主茂右衛門 によって開発されたことによります。番場宿と…

札の辻と問屋場跡

案内板 「 札の辻と問屋場跡甲州街道(道中)と鎌倉街道が鍵の手に交る ところに高札場があったところからこの界隈 を『札の辻』『鍵屋の辻』と呼び親しまれてい ました。 安政6年(1859年)府中宿本町に大火があり、 それを機に萬延2年(1861年)中久本店の店蔵 …

府中市 イチョウ並木馬場寄進碑

案内板 「 府中市指定文化財 有形文化財 イチョウ並木馬場寄進の碑 指定 平成五年一二月二二日 馬場大門のイチョウ並木の両側の歩道部分はかつて馬場であり、『馬場大門』の名称もこれに由来しています。 馬場は、慶長年間(一五九六~一六一五)に徳川家康が…

府中 明治天皇行在所跡

案内板案内板 「 この地はかつて府中の大店、田中三四郎家があった所で、この田中家が明治天皇行在所になっていました。行在所とは、天皇行幸の際の仮のすまいの意味であり、土地の有力家が休憩所や宿泊所に宛てられていました。 明治天皇の行幸については …

飛田給石造瑠璃光訳詞如来立像

案内板 「 市指定有形民俗文化財(民俗) 飛田給石造瑠璃光薬師如来立像所在地 飛田給一丁目二十五番地 薬師堂 指 定 昭和四十九年七月十二日この製造が「飛田の原の石薬師」と言われ、庶民信仰の対象となっているものです。 江戸時代初期、貞享年間(一六八…

飛田給薬師堂由来

案内板(碑) 「 飛田給薬師堂由来飛田給薬師堂由来 今から三百年の昔貞享(一六八四~八四)のころに仙台伊達家の忠臣松前意仙行重なる人が諸国行脚のおりこの地に足をとどめ庵をむすび医業のかたわら仏道に志し衆生を済度し慈悲深き日々を送られた その後自…

飛田給薬師堂 行人塚

案内板 「案内板 「 市史跡 行 人 塚 所在 飛田給一丁目二十五番地 薬師堂境内 甲州街道と大山海道との交差点 指定 昭和四十九年七月十二日 この塚は、仙台の人松前意仙の入定塚である。 伊達藩士にして医師であった意仙は、薬師如来に帰依礼拝の心があつく…